なぜかよく見た「オテロ」

昨日の日記で、コロン劇場でホセ・クーラの「オテロ」を見た話をちらり、と書きました。この「オテロ」というオペラ、なぜかよく見ているんです。なんでだろう。

今まで、そんなに沢山のオペラを見てるわけじゃないので、同じ演目を複数回見る、なんてことはあまりないんです。同じ演目を複数回見たのは、この「オテロ」と、「カヴァレリア・ルスティカーナ」、それと、「チャールダッシュの女王」くらいです。「チャールダッシュ」にはすごく思い入れがあるので、ある意味仕方ないんですが、「オテロ」は3回も見ている。なんでだろう。それも、「見に行くぞ!」と気合を入れていったのは1回だけで、他の2回を見たのは、ほんとに、偶然、なんですけどね。

何度見ても、ほんとに素晴らしいオペラなんですけど、ここで取り上げる理由は、その3回の「オテロ」が、なんとも対照的なものだったからです。同じ演目なのに、こんなに違うものなんだなぁ、と妙に感心してしまった。

最初に見たのは、もう随分前になると思うのですが、キーロフオペラの来日公演で、NHKホールで見たのです。ガレリア座の友人が行けなくなって、「行ってみます?」と言われて行ったのですが、実に素晴らしい演奏でした。
中でも、この舞台では、イアーゴが非常にクローズアップされていました。十字架を思わせる巨大な金属のジャングルジムのようなオブジェが、縦になったり、斜めになったりして、舞台上にずっと存在している、そのオブジェの回りをうろうろとうろつきながら、オテロへの悪意を歌いあげるイアーゴの姿が、なんともかっこよく、「オテロ」じゃなくて、「イアーゴ」っていうオペラじゃないの?と思ったほどです。やっぱり、ロシア人っていうのは、低音にこだわりがあるんでしょうかね?
次に見たのが、コロン劇場の「オテロ」。舞台全面を真っ赤な巨大な階段で構成した、ある意味シンプルな舞台だったのですが、この階段が時には城砦の外になり、時には屋内になる。3幕で、この真っ赤な階段の真中に、真っ白なデズデモーナのベッドがかたどられた時には、そのシンプルな美しさに息を呑みました。アルゼンチンというのはこういった美的なセンスにおいて、本当に洗練された国だと思います。
この舞台では、なんといっても、ホセ・クーラの露出!なんでオテロが上半身裸でないといけないの?上半身裸の上にマントを羽織っているって、ヘンでしょうが。そんなに胸板を見せたいわけ?見せたいんでしょうね。確かに立派な胸板です。参りました。はい。コナン・ザ・グレートか、あんたは。
このホセ・クーラの存在感のせいもあったと思うのですが、全編に、英雄オテロの蹉跌、というテーマが押し出された舞台だったと思います。功成り遂げた超人的な英雄が、部下の裏切りと嫉妬によって滅びていく過程。これを、ホセ・クーラは、あくまで英雄的に、あくまで立派に歌い上げていました。最後の最後まで、かっこいい。そして胸板。ううむ。
一番最近に見たのが、サンフランシスコ歌劇場の来日公演の、ドミンゴの「オテロ」です。一時期、声の力が失われて、ドミンゴももう終わりか、と思われたところで、ぐぐっと復活してきたときの来日公演。METの「サムソンとデリラ」も素晴らしかったのですが、この「オテロ」は本当に最高でした。
ドミンゴオテロは、かっこ悪いです。ほんとにかっこ悪い。決して英雄的ではないし、イアーゴの讒言に右往左往する姿も、地に足ついていない感じでほんとに情けない。でもその情けなさが、とにかく人間臭くて、その混乱、絶望が、形になって目に見えてくるような、生々しさ、リアルさにあふれている。まるでヴェリズモ・オペラを見ているような感覚。極めつけは、最後のシーン。自らを刺し貫き、断末魔の苦しみに悶えながら、デズデモナの手をもとめて這いずっていく姿のなんとみっともないこと。でもそのみっともない姿が、デズデモナを愛してやまなかった普通の人間「オテロ」を際立たせる。このシーンには本当に涙が出ました。このドミンゴの「オテロ」を見ることができた、というのは、20年くらいたって、娘に自慢することができる素晴らしい経験だったと思います。

三者三様の「オテロ」。それだけの解釈の幅を許してくれる優れたテキストなんだなぁ、と思います。同じ演目でも、ナマの舞台に触れると、必ず何か得るものがある。最近あんまりナマの舞台に触れていないなぁ。忙しいのは確かですけど、なんとかインプットの機会を作りたいです。