伝統ということ

今日の午前中は胃カメラ検査。結構大きな潰瘍が出来ている、とのことで、薬のグレードアップ。しばらくは健康的な生活を送らないとね。
でも、私みたいに十二指腸潰瘍暦が25年近くになると、検査の方法は勿論、特に薬の進歩には驚かされます。高校生くらいの時に、すごくいい薬が出てきたんだ、と処方されたガスターが、いまや店頭で売られているんですからねぇ。

で、今回は、「伝統」・「慣習」ということについて。
街はいまや桜の真っ盛りですね。会社の近くの神田川でも、市谷あたりから流れてきた桜の花びらが、川面に渦を作っています。春といえば、ソメイヨシノの花の饗宴、桜前線ソメイヨシノが基準だし、桜といえば、ソメイヨシノ、という感じがします。

ところが先日、女房が「ソメイヨシノ」というのは意外と新しい桜の品種なんだよ、ということを教えてくれました。調べてみると、江戸の後期から明治の初めに、駒込の染井という所の植木屋さんが開発して、「吉野桜」と命名して売り出したものを、奈良の吉野の桜と紛らわしい、ということで、明治18年に、学者が「ソメイヨシノ」と命名したものだそうです。
(他に、韓国原産だ、という研究結果もあるようですが、はて?)

・・・そこで女房と話していたのですが、とすると、西行のあの有名な、「願わくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」の歌で歌われた「花」というのは、今のあの豪勢なソメイヨシノではなくて、しだれ桜や山桜だったのか。あるいは、豊臣秀吉が催した醍醐寺の花見も、ソメイヨシノじゃなくて、しだれ桜の花見だったんですね。今のように、春になるとあちらこちらで、泡立つようなピンクの花が咲き乱れる風景、というのは、明治の後半くらいから一般的になったものだったんです。

・・・そう思うと、僕らが「伝統」と思っていること、昔から変わらず繰り返されてきたことだ、と思っていること、というのは、意外と歴史が浅くて、様々な変遷を経てきたものなのかもしれないなぁ、と思いました。
このページの主題であるパフォーマンス系の話に持ってくると、例えば歌舞伎なんか、伝統芸能でありながら、個々の役者さんが自分の個性にあった絶え間ない工夫を加えていくことで、常に新鮮であり続けています。そうやって生み出された工夫が、「これはいい」ということでさらに引き継がれていく・・・つまり、伝統というのは、「守るべきもの」というよりも、「積み重ねていくもの」なんですね。一つの伝統的な型がある。何故そんな型が生まれたのか、という背景・理由があって、それが優れたものであれば残るし、それよりも優れた背景・理由を持った新しい型が生まれれば、それにとって代わられる。歌舞伎の美しさ、というのは、そうやって研ぎ澄まされ、取捨選択されてきて、それでも生き延びる価値があった、誰もが認める「美しさ」だからこそ、引き継がれてきたもの。だから、やっぱり歴史を重ねていない新作歌舞伎よりも、古典歌舞伎の方が、色んな意味で「美しい」。常に時代に洗われながら、それでも生き残ってきた強靭な美しさだからなんでしょうね。

ところで、ソメイヨシノの話に戻ると、この品種、自分では実をつけることができず、接木や株分けでしか増えない。つまり、全国にあるソメイヨシノは、全て同じ遺伝子をもっているそうです。なので、同じ気候環境下で、一斉に花をつける。花の量も多く、成長も早いので、一気に全国に普及したものらしい。

・・・つまり、街中のソメイヨシノって、どれもこれも同じものなんですね。なんとなく、マトリックスレヴォリューションの、エ−ジェントスミスの増殖シーンみたいな感じがして、ちょっとばかり気持ち悪くなりました。

同一の遺伝子、ということになると、同一の病気にも弱いかもしれないし・・・ひょっとしたら、あと100年もすると、全国のソメイヨシノは全滅していて、全く別の桜がお花見シーズンを彩っているかもしれませんね。