プライドって、大事なような厄介なような

12月のガレリア座公演「悪魔のロベール」。本番を2か月後に控えて、本格的な立ち稽古が始まっています。今回の公演、色んなスケジュールが押せ押せになっている関係もあって、先日の立ち稽古では、土曜日に初めて演出がついた幕を、日曜日に通し稽古する、というタイトな日程になりました。しかも、合唱はいわゆる「カゲ合唱」(舞台表には出てこず、舞台裏で歌う)、ということで、日曜日の通し稽古では、練習会場の前方に合唱の団員さんたちがずらっと並び、私たちソリストの演技を、演出家と一緒に凝視している、という状況に。しかもよりによって、私がほぼ出ずっぱりの幕。

同じ座の団員さん達、というのは、一緒に舞台を長く作ってきた仲間でもありますけど、その分、最も厳しい観客でもあります。演者・歌手としての私の力量も、色んなヘンな癖も、全部知ってる。ソリストの座を争うライバルでもあるわけで、そういう人たちの視線にさらされて、昨日演出がついたばっかりの芝居をやらなきゃいけない、ということで、恐ろしく緊張しました。私は割と緊張する方で、いつも本番直前になるとイライラ落ち着かなくなるんですけど、今までのどんな本番よりも緊張したかもしれない。演出家のスタートの声がかかる直前は、心臓がバクバクで吐き気まで催す始末。

そういう状態になってしまうってのは、自分自身が色んな意味で未熟だからなんでしょうけどね。団員を圧倒するだけの実力があるわけじゃない。どこかで「なんであいつ程度の歌い手がソリスト張ってるんだ」と思われているんだろうな、という自信のなさ。実力が備わっていない癖に、「あの程度か」と思われることに対しては我慢できない。そういうプライドだけは高い。

一方で、割と真摯な気持ちで、こういう練習の場であっても、今の時点の精一杯のパフォーマンスを見せないと、と思うプライドもある。プロの団体であれば、練習で多少手を抜いたパフォーマンスを見せていても、「この人は本番になればすごい」という信頼感があるから、みんな安心して見てられるだろうけど、我々みたいなアマチュアの団体だと、一回一回の練習で、その時点でのベストパフォーマンスを見せないとダメだろう、と思うんです。中途半端なパフォーマンスを見せていると、「まあソリストがこの程度なんだったら、今回の舞台はこの程度の舞台なんだね」という空気が、練習会場に蔓延してしまうんじゃないか、と。毎回の練習で、「ソリストがこんなに頑張っている」「ソリストが前回よりも確実に上手になってる」と思ってもらうことで、一緒にいいものを作っていこう、という空気を、みんなの中に醸成していくことができるんじゃないか、と。それが、実力的にはほぼ同等のアマチュアの歌い手の団体の中で、あえてソリストに選ばれた人間の義務だろうと。

だから、通し稽古が始まる直前まで正直すごく迷ったのですけど、楽譜は手に持たず、暗譜で臨みました。前日に演出がついたばっかりで暗譜で、というのは無謀かなーとも思ったんですが、細かい歌詞の抜け、演出指示の抜けよりも、譜持ちで立ち稽古をやることで緊張感が抜ける方が嫌だ、と。とはいえ、一部の歌詞は、前日にやっと訳詞が出てきたものだったので、さすがにその部分は譜持ちでやらざるを得なかったんですが。

結果的には、そんなにいいパフォーマンスができたとは思えなくて、やっぱり歌詞も一部落ちてしまったし、芝居も歌唱も全体的に力が入りすぎていて、今一つノリが悪かった。自分の身体に余計な力とか変な動きがまとわりついているのが分かる。これを今後どんどん切りそろえていかないと、と確認できた、という意味では、現時点ではいい練習だったのかもしれない。譜持ちだとどうしても、自分の感情とか芝居のコントロールが二の次になってしまうから、やっぱり暗譜でやってよかったんだ、と自分に言い聞かせてはいますが、「この程度のソリストかよ」という感想を団員さんに持たせてしまったかも、という点では、譜持ちでやった方がよかったのかもしれない。一応、暗譜で頑張った、という心意気だけは買ってもらえたみたいですが。そういう心意気をちゃんとパフォーマンスの出来につなげていかないと。

舞台パフォーマンスをやっていると、自分の「プライド」とか「矜持」みたいなものを問われる局面って、結構ある気がします。特に我々アマチュアみたいに、それで生活を支えているわけではない人間のパフォーマンスって、この「プライド」に支えられている部分が大きい気がする。もちろん、それが空回りしてしまったり、プライドがぶつかり合って大ゲンカになって「もう辞めます」みたいな大騒動になったりすることも多いんですが。プライドって、厄介だけど、でも大事。