「子守唄の誕生」〜文字に残らない歌の歴史〜

歌っていうのは、文学とか建築とか絵画みたいに形に残らない。リアルタイムの芸術なので、その歴史を追いかけるには、記録に残っている歌詞を追いかけるか、民俗学的なアプローチで古来からの口伝で残されている歌を、フィールドワークによって採集していくしかない。今のように映像や録音による記録がない時代の、きわめて乏しい「歌の記録」。そういう「資料の限界」が、逆に想像力をかきたてる、という側面もある気がしています。

昔、西行という人にちょっと興味を持ったことがありました。彼は生涯の間で何度か、大規模な「勧進」を行っています。地方を行脚して民衆から浄財を集め、大きな寺院の建立のための資金にしたりする、という活動。この西行さんの「勧進」は大成功を収めるのだけど、その話を聞いてふと、

西行って、人気ロックシンガーみたいな人だったんじゃないかな」

と思ったことがあった。要するに、彼が唱えるお経の声=歌を聞きたさに、人が集い、お布施が集まったんじゃないかしら、と。

今でも、インドの田舎にいくと、ヒンズー教聖典である「リグ・ヴェーダ」の挿話を話す「辻説法」というのが大規模に行われているそうです。巧みな語りを売り物にする説法師がおり、お目当ての説法師が語る宗教的な挿話と教訓話を聞きたさに、たくさんの人たちが集まり、時に涙を流して宗教的な恍惚に浸る。西行が行った「勧進」というのも、彼自身の美声の魅力に人が集い、その声=歌に酔った、という側面があったんじゃないか、と想像しているんです。実際、西行さんの母方のお祖父さんは今様の名手だったので、彼もきっと素晴らしい美声の持ち主だったんじゃないかなぁ、と。そんなことは資料のどこにも残っていないのだろうけど、そういう側面があったとしたら面白いよなぁ、と。

西行さんには、「雨月物語」に描かれた崇徳院との霊的交流を始めとする、いささかオカルティックな側面もあって、それもオカルト趣味の私の興味を引くんですがね。西行の生涯を紐解いていくと、伊勢・熊野・高野山などの当時の霊的聖地との関わりが深いし、彼をめぐる不可解な伝説として有名な、反魂の術を使って死人を甦らせた、という話(結果的にそれは人にあらざる者=フランケンシュタインのような怪物であった)も、そういう呪術師としての西行の側面を伝えているような気がする。そういう西行の霊的な力の源泉になっていたのが、彼の声=歌だったんじゃないかな、というところまで、想像は飛躍していくんですが。

なんでこんなことをつらつら書いているか、というと、偶然図書館で見つけて昨日読了した、「子守唄の誕生」(赤坂憲雄 著)のせい。子守唄の中でも、もっとも有名な五木の子守唄の、70種類にも上る歌詞の分析を中心に、各地に残る同種の子守唄の歌詞分析を通して、子守唄の歌い手であった「子守娘」=「ネエヤ」の精神世界と、彼らを生んだ時代背景に迫る。なかなか刺激的な本でした。(以下、未読の方にはネタバレの記述がありますので、ご注意を)

端々に、「へえぇ」と思うような記述が結構あって、主題以外にもわくわくする部分がたくさんあります。そもそも、子守唄の担い手である「子守娘」という形態自体が、明治から昭和の初期、近代日本の黎明期の比較的短い期間に、主に西日本で発生した、というのも驚いた。思ったよりずっと新しい歌なんですね。西日本では、この「子守娘」たちによって、きわめてバラエティに富んだたくさんの子守唄が生まれるのだけど、東日本ではそこまで類例が多くない。なぜなら、東日本では大家族が生活単位の基本で、「子守」という仕事の担い手は、同じ家族の中の年長の子供たち。結果として、東日本では「子守娘」という専業形態が生まれず、独特の世界観に根ざした「子守唄」も生まれなかった。なるほどなー、と思いながら読みました。

最終的に、著者は、子守唄の担い手である「ネエヤ」の出自を、紀州から九州までの山林を主たる生活場所としていた山師や木地師などの「山の民」に求めていく。その流浪の本性から、定住民である里の民になじめず、かといって山の親からは遠く切り離されている孤独感が、これらの子守唄に共通する、陰鬱で悲哀あふれるメロディーと歌詞に反映している。その論理の筋道も面白いのだけど、異論も出るだろうな、と思います。そういう一面的な起源論に収まらないほど、子守唄自体が極めて多様性に富んでいるし、それは著者自身も認めているところ。でも、この本の魅力は、そういう「起源論」の謎解きの面白さだけではない。丹念な時代考証と、引用される子守唄の歌詞そのものの持つ圧倒的な情感。夕暮れ時に村はずれにたむろしながら、互いの境遇や、時にぞっとするような激しい感情を即興で歌いあっていた「ネエヤ」たちの姿と、哀愁を帯びたメロディーが、リアルに浮かび上がってくる。でも、前述したとおり、その姿は、別に映像に残っているわけでも録音されているわけでもない。記録に残っていないその場の空気や口ずさまれたメロディーは、読者側の想像力にゆだねられている。その余白の美しさ。

中でも面白かったのは、大分県の宇目という地方に伝わる、「宇目の唄げんか」といわれる掛け合い唄。子守娘たちが二手に分かれて、片方が歌った歌を受け、即興で思いついた歌詞で歌い返す。歌い合いは、時にお互いを罵り合う本当の「喧嘩」になったり、望郷の思いを共有する共感の唄の投げ合いになったり、自分たちをこき使う主人の醜聞を暴く本音のぶつけ合いになったりする。当意即妙の返歌に対しては、素直な賞賛の歌が返され、即興の歌いあいは延々と続いていく。

・あん子面(つら)見よ 目は猿まなこ 口はわに口 えんま顔
・おまえ良い子じゃ ぼたもち顔じゃ 黄粉つけたら 尚(なお)良かろ
・いらん世話やく 他人のげどう やいち良ければ 親がやく
・いらん世話でも 時々ゃやかにゃ 親のやかれぬ 世話がある
・わしがこうしち 旅から来ちょら 旅の者じゃと 憎まるる
・憎みゃしません 大事にします とぎじゃとぎじゃと 遊びます・・・

・・・こういう風景を描写されると、理由もなくわくわくする。なんでだろう。村はずれに響く少女たちの歌声。相手の歌に憤慨する声、驚嘆する声、笑い声、涙声、さまざまな声たちが一緒くたに、澄み切った茜色の夕焼けの中へ消えていく。空高く黒々とのしかかる山の向こうまで届けと、高い幼い声が歌う孤独な想いと、その詩情。

農村の近代化と共に、子守娘、という職業は次第に衰退し、紡績工場の女工、という形に変貌して近代日本を支えていったといいます。意外と身近な歴史の中に、失われてしまった美しい文化と豊かな精神世界があった、ということに、新鮮な驚きがありました。