映画「フリーダ」〜運命と戦い続けること〜

フリーダ・カーロという画家は、以前、この映画が公開された前後に、NHK教育の「新日曜美術館」が特集したのを見たのです。あまりに「痛い」絵が並んでいることにショックを受ける。精神の痛みと肉体の痛みが共存・混在していて、それを視覚化してくるものだから、どの絵を見ても「痛い」。こういう痛い絵を描く人だから、さぞかし悲惨な人生を歩んだ人だったんだろうな、と思いながら、先日、録画した映画「フリーダ」を見る。

もちろん、恐ろしく悲惨な人生なんです。若い頃に交通事故に遭い、リハビリで体中はぼろぼろ。生涯の伴侶となった夫は病的な浮気性で、フリーダの妹にまで手を出してしまう。まさにあの絵に描かれたような、「痛い」人生。痛みを感じていない時間の方が短い、というようなセリフもあったような。

にも関わらず、この「フリーダ」という映画を見た後のこの清々しさ、爽快感はなんだろう。ラストシーンの、絵と一体化したフリーダの微笑み。彼女は決して、自分の「痛い」人生を嘆いていない。嘆く時間があるのだったら、描いている。嘆く時間があるのだったら、愛している。「生涯で2度の大事故は、バスの事故とディエゴ(夫)だ」と言いながら、その事故の相手である「痛み」を絵にし、ディエゴを愛している。そこには、自分の内面も外面も全てを客観的に捉えようとする画家の精神、という以上の何かがある。

それって、やっぱりラテンの血なのかもしれないなぁ、と思います。メキシコという風土。自分の生きる人生を受け入れること。運命を受け入れること。結婚なんてのは一種の事故だ、と言った人がいますが、その通りで、男と女の出会いというのは、交通事故同様に運命なんです。そういう運命に対して、フリーダは決して顔を背けようとしない。逃避しようとしない。真正面から見つめ、真正面から闘い、真正面から描く。それがどんなに激しい痛みを伴っていたとしても、決して逃げない。

ディエゴ・リベラという人は、フリーダの伝記を聞いた時には、絵の才能だけが突出した一種の怪物的な、どうしようもない人物像として印象されていました。しかし、この映画では、どこか大きな子どものような、自分を曲げることのできない正直で一途な人物として描かれています。いくら浮気を重ねても、ディエゴがフリーダを愛し、信頼している様は変わらない。フリーダも、奔放に生きているようで、常にディエゴを愛し続ける。それがどんなに痛みを伴う愛であったとしても、決して逃げない。

冒頭、鏡に映った身動き取れない自分の姿を見つめながら、フリーダの浮かべている微笑。それは、自分自身の痛みを自嘲しているようにも見えるし、運命に闘い続ける自分を自嘲しているようにも見える。でも何よりも、自分に降りかかってくる運命自体に、「今度はあたしをどうしようっていうのさ」と、宣戦布告をしているような、そんなエネルギーに満ちている。決してネガティブではない。メキシコの大地に屹立する竜舌蘭の、剣のような葉のように、つねに燃え盛る生命力。

挿入される人形アニメや、フリーダの絵や写真とのコラージュなどもかっこよく、全編に渡って、実にかっこいい映画でした。それにしても、サルマ・ハエックはほんとうにフリーダそっくり。