勘三郎襲名公演 そのいち〜「恥」ということ〜

週末のインプットを例によって並べます。

・金曜日、勘三郎襲名公演を見に行く。大好きな「毛抜」で楽しみ、「籠釣瓶」の構成の見事さに感動。
・土曜日、大田区民オペラ合唱団の練習に

今日は、勘三郎の襲名公演の感想を、多分、1回ではすまないので、2回に分けて。「籠釣瓶」の話です。

今回は、娘をひざに乗せての観劇、舞台慣れしている娘ですが、さすがに歌舞伎はきつかったらしく、途中で何度か席を立って、劇場廊下でイヤホンガイドを聞きながら、という、なんとも中途半端な観劇になってしまいました。あまり舞台には集中できず、大詰めの後半は見られなかったのがほんとに残念。それでも、見染の場と、縁切りの場は、なんとか娘も我慢してくれて、見ることができました。娘は縁切りの場で、回り舞台が回るのを、「回った、回った」と大喜び。見染の場の桜の華やかさには、一瞬食い入るように舞台に見入っていました。まあ、観劇よりも、幕間のお食事や、売店でのお買い物とかが楽しかったようで、「歌舞伎楽しかったよ」とご満悦でした。

この「籠釣瓶」、初めて見た演目だったのですが、色んな意味で実に面白かったです。見染の場、八橋の艶然たる微笑に、次郎左衛門が心奪われる一瞬は、視線と表情と間だけ。一切のセリフはなく、舞台上の動きすらほとんどない。ほんの数センチの首の動きと、唇の数ミリの動き、そして、絶妙の間。それだけ。それだけしか起こらない舞台の上に、観客全員が石になったかのように集中する。玉三郎の表情、そして18代勘三郎との完璧に息の合った間。オペラの狂乱の場の、呼吸もできないような凝縮度と同じような緊張感を味あわせてもらいました。

縁切りの場では、舞台上の人物配置の完璧さに驚きました。例えば黒澤映画などで、フレームの中の人物配置の見事さに感動することが多いのですが、舞台上、八橋、かむろ、次郎左衛門、同輩たち、他の花魁に、やり手婆、など、様々な登場人物たちの配置が、完全に完成された絵になっている。絵として美しいだけでなく、その配置が、それぞれの人物の位置づけをそのまま表現している。ドラマと舞台構成の見事なシンクロ。その中で、「そりゃ花魁、袖なかろうぜ」の名セリフが訥々と語られる。これまた息を呑むような緊張感でした。

勘三郎玉三郎仁左衛門という当代随一の役者をそろえた、というだけでなく、それぞれがそれぞれの持ち味を十分に発揮できる、この人たちに当てて書かれたのでは、と思うようなお話でした。誰からも愛される朴訥な田舎者の次郎左衛門。なんて勘三郎にぴったりの役。それが(見られなかったけど(T0T))妖刀の魔力と運命に操られるように殺人鬼と化していく、その凄み。玉三郎は、花魁が本職でしょう、と言いたくなるような妖艶さ。妖艶であり、冷酷でありながら、どこかで次郎左衛門への情けを残している、奥行きのある複雑なたおやかさ。仁左衛門は、花魁の間夫が本職でしょう、と言いたくなるような優男ぶり。

面白いなぁ、と思ったのは、非常に普遍的で、現代にも通じるような三角関係のお話でありながら、殺意の源泉が、「恥」という所にある、ということ。そこが非常に日本的であると同時に、非常に歌舞伎っぽい。同じような、三角関係からくる殺人、を題材にした、「オテロ」や「カルメン」と比べると、同じような筋書きではありながら、全然違う。

オテロ」や「カルメン」において、殺意は、「嫉妬」から来ます。その前提として、オテロとデズデモナは真実の夫婦関係にあるし、カルメンとドン・ホセも、一旦は相思相愛状態になります。つまり、あくまで男女関係は真実の男女関係である。そこに、第三者が現われる(あるいは現われたと思い込む)ことによって、愛が嫉妬へ、そして殺意へと変わる。しかしそこには前提として、真実の愛が確かに存在している、あるいはしていた。

しかし、「籠釣瓶」において、次郎左衛門と八橋の間にあるのは、真実の恋愛関係ではなく、「花魁」と「客」の間の、擬似恋愛なのです。娼婦と客の間の、決まりごとに沿った「恋愛ごっこ」であり、計算ずくの男女関係。計算ずくだから、間夫がいたって別に当たり前。そういう計算ずくの結果としての身請けがあるけれど、それは決して、真実の愛を誓った果ての「結婚」という形ではない。あくまで、お妾さんと旦那さんの関係。そこでも、「恋愛」というのは真実のものにはならない。

殺意は、真実の恋愛が裏切られたことによって生まれるのではない。その「擬似恋愛」「恋愛ごっこ」のルールを、花魁が一方的に破棄すること。その「ルール違反」によって、次郎左衛門が、満場で「恥」をかかされたこと。これが殺意の源泉となるのです。簡単に言えば、「よくもオレではなく、あの男に走ったなあ」ではなくて、「よくもみんなの前で恥をかかせてくれたなぁ」と、八橋を切り殺す。

非常に日本的な、「恥」の文化に根ざすドラマ。しかも、虚構としての「恋愛ごっこ」が、本当の命のやりとりになってしまう、という、虚構と現実の交差する世界。それは、心中という虚構のドラマに酔うように死に急ぐ、近松の描く主人公たちにも通じるし、不義密通というフィクションを現実が追いかける「鑓の権三」のドラマにも共通する。歌舞伎には、まだまだ面白い演目が一杯あるんですね。完成された舞台の見事さと共に、歌舞伎という世界の奥深さ、面白さを再発見させてくれた、素晴らしい舞台でした。