教師という職業

最近のニュースでは教育の現場の荒廃がことさらに報じられることが多いですよね。そろそろ幼稚園を卒業する娘を抱えている我が家としても、他人事ではないニュースが多い。セクハラ教師だの、新任教師の自殺だの、教科書問題だのなんだの・・・

確かに、教師の質が落ちている、とか、ゆとり教育の弊害、とか、そういう全体的な傾向というのは実際に存在しているのかもしれません。ただ、この日記でも時々書くように、マスコミの報道というのは必ずバイアスがかかっているもの。「教師」という攻めやすい職業、「教育の荒廃」という、将来への不安と危機意識をあおるテーマ。大事なテーマではあるかもしれないけど、なんか、ここぞとばかりに騒ぎ立ててる要素ってないかなぁ。

なんでこんなことを書いているか、というと、ガレリア座の仲間のstasiさんが、日記の中で、大学生相手に講義をすることの難しさ、というのを書いてらっしゃるのを読んだから。教師、というのは、ものすごく難しい職業だと思うんです。別に、自分が教壇に立った経験から言うわけじゃなくて、自分が、一つの舞台を演出したり、演技者として舞台に立って、お客様に向き合った経験から、そう思うんです。

教壇に立つ、ということは、一つの合唱団を指導する、という行為と、すごく似通っている気がします。ガレリア座で演出を取った時、20人くらいの合唱団の方々に、「こう動いてほしい」という指示を出す。とても単純な例で言えば、練習開始時間になって、「さあ始めるよ!」と声をかけても、ずっとくっちゃべっている人が数人いたりします。「ここで楽しそうな顔をして、全員で右手を宙に伸ばして」なんて一つの動作を指示するだけで、大騒ぎです。「楽しそうな顔」を引き出す。美しく右手を伸ばす姿を整える。タイミングをそろえる。パフォーマンスに参加しよう、というやる気を持った集団を指導するのでさえ、そんなに大変なこと。

教師が相対している生徒、という集団には、まず、参加意識がない。そして、均一化されていない。さらに、子供、というのは、観客としても最悪の観客です。自分に興味がないこと、面白くないことに対しては徹底的に無視しやがります。シリアスなお芝居の最中の無神経な子供のおしゃべりのおかげで、どれだけ舞台を壊されそうになったことか。

そういう子供達の意識を自分に集中させるパフォーマンス能力。さらに、子供の行動を一つに統一させるリーダーシップ。はたまた、子供の能力を見抜き、的確にアウトプットを引き出す教育者としての能力。そんな能力のそろった人が、そうそう沢山いるもんですか。逆に言えば、現場の教師の方々は、そういう能力を父兄から期待されている。期待から外れると、すぐ攻撃される。公務員の給料は公費節減で上がらない。それでも現場でサービス残業し、自宅にテストの採点仕事を持ち帰り、生徒の部活動で週末をつぶして、にこにこ頑張っている本物の教師は世の中に一杯いるんです。

昔、「教師」という職業は、それこそ一部のエリート集団が担った職業であり、それだけの能力のある方々でないと勤まらない仕事だったんでしょうね。それがいつからか、単なる資格職業みたいなところに落ち着いてしまっていて、私が今書いたような、職業に対する使命感とか、自分の能力を向上させるための努力とかを怠ってしまう現場の教師が増えている、というのも実際のところなんでしょう。

教育現場の荒廃を嘆くなら、いい教師を育てる環境をもっと整備するべきでしょう。教師の給料を上げる。教師の資格を複数化して、「スペシャル教師」「一般教師」などに分けて、高い資格を持つ人の給料を上げる。成果制度を取り入れる。そういう議論なしに、教科書問題だのカリキュラムだのに目くじら立てていたって、現場の教師は追い込まれていくばっかりです。そしてそのしわ寄せが、子供に来ちゃうんだよなぁ。