「流れ」ということ

昨日は大阪に日帰り出張で、日記も一日お休み。帰りの新幹線でビールかっくらって爆睡。その割には疲労感が抜けてない。気管支炎の調子が悪くて、まだ体調不良のせいかなぁ。

さて、今日は、「流れ」ということについて書いてみたいと思います。

昨夜、女房と、オリンピックの新体操競技を見ていました。どの選手も派手できれいで、関節の構造が間違っているとしか思えないような動き。すごいなぁ、と思いながら見ていたんですが、そのうち、何か違うぞ、と。

新体操の採点方法ってのは全然理解できないんですが、高得点を出している東欧あたりの選手の演技と、他の国の選手の演技が、なんだか全く別物のように見える。同じ競技なのに、何か違う。何が違うんだろう。よく見てみると、体の動きの「流れ」じゃないか、と思った。

東欧あたりの選手の動きには、淀みがありません。常に動いている。常に流れている。ボールが空中にある間も、そのボールを待って動きが止まる、ということがありません。何かしらどこかが動いている。

さらに、その動きと動きの間が実に流麗につながっている。一つの動きから次の動きに移行するときに、何かひっかかるような感覚が全くない。全てが一連の動きとして、まさに流れるように移行していくんです。

「流れる」ように見えるために必要なものは、音楽的に言えば、リズム感とフレーズ感、だと思います。この日記で繰り返し述べているように、一流のスポーツと一流の芸術は、一流のパフォーマンス、というところで共通してくると思うのですが、このリズム感とフレーズ感、というのは、その中でも一つの大きな共通項かもしれません。つまり、一連の「流れ」を流麗に維持しながら、その「流れ」の中で、人間の能力の限界ともいえるような特別な「動き」に挑戦する、ということ。逆に、その「流れ」をしっかりと維持し、最高のリズムとフレーズを獲得することで、自分の能力を限界にまで引き出すことができる、ということ。

室伏選手のハンマー投げの姿は、ハンマーを持ち上げるところから回転の角度、そして実際の投擲までの一連の動きが、実に見事な、美しい「流れ」を作っています。その「流れ」、つまり、リズム感とフレーズ感が崩れると、記録も伸びない。ハードルで優勝候補の選手が転倒した姿を見ても、この「流れ」が乱れてしまった結果かな、と思います。

一昨日の夜、個人レッスンしている「ワルツの夢」のリートの練習をしたのですが、ここでも、流れ、フレーズ感をきちんと維持する難しさ、というのを痛感しました。女房の指導で、オペレッタのリートとはいえ、ヘンに歌い飛ばすのではなく、きちんと音符通りに、大事に大事に歌いなさい、というご指導をいただきました。指導されたように歌うと、確かにフレーズにドライブ感が出て、ヘンに突っかかる感じがなくなる。それこそ、新体操の東欧の選手と、他の国の選手の演技の差のような、「流れ」を維持することができる。でも、これが難しいんです。

一つ一つの音符を、きちんと書かれている長さでつなげていくことの難しさ。何度やっても、フレーズの最後の方でとっちらかってしまったり、高音のところで弱気になったりする。するとてきめんに、続くフレーズがぼろぼろになってしまう。

新体操の選手たちの演技を見ながら、求めていく地点は同じなんだよなぁ、と思いました。まだまだ全然ダメって感じですが、なんとか一つ、仕上げていきたいと思います。