「夢」〜エンターテナーの宿命〜

ネットサーフしていると、時々、極めて個人的な出来事や感傷を、極めて個人的な表現で表出しているブログに出会うことがあります。身も蓋もない言い方をしてしまえば、「何を言ってるのかわからん」ブログ。本人は非常に切実に、必死になって自分の心情を吐露しているようなのだけど、外に伝わってこない。でも逆に、それを外に伝えようとして、「誰にでも分かる」表現の中に押し込めようとすると、本人の心情や、本当に言いたいこと、本当に感じたこととは別のものになってしまうのかもしれません。

私のように舞台表現に少し絡んでいると、一つの舞台を作っていく途中で、「これは僕のやりたいことじゃない」という思いにつぶされてしまう人たちを見ることがあります。制作開始の時点では、表現への期待と意欲に満ち溢れていたものが、制作の過程で、色んな条件や人間関係の間で妥協を繰り返し、最終的に出来上がった舞台が、自分の表現したい内面とかけ離れてしまう。その違和感につぶされてしまい、制作の現場から離れていく人々。

表現というのはそういう両義性を備えたもの。みんなに自分の内面をわかってほしい。理解してほしい。そう思って表現を重ねて出来上がった文章や映像、舞台などの作品は、既に自分の内面を離れた別のものになってしまう。自分を理解してもらおうと思えば思うほど、本当に理解して欲しい自分から離れていってしまう違和感。そのパラドックスの中にあって、どこまで自分自身をきちんと表現できるか、表現された作品の中にこめられた自分自身を、どこまで見失わずにいられるか、というのが、表現者に与えられた永遠の課題なんでしょう。

黒澤明監督の「夢」という映画を見て、真っ先に思ったのは、これは黒澤さんのプライベートフィルムだなぁ、という感想。「八月のラプソディー」や「まあだだよ」で感じたのも、同じ印象だったんだよね。晩年の黒澤さんは、映画という手段によって、極めてプライベートな個人体験を表現しようとしていたんだ、と思うんです。「夢」という作品に対して、反核の教訓や、自然回帰の主張を読み取る人は多いし、そういうメッセージ映画として捉える人も多いようだけど、私はそう思いません。メッセージ映画として捉えてしまうと、この映画は非常に浅薄なものに見えるでしょう。現代において、反核というメッセージも、自然回帰というメッセージも、ある意味使い古されたもので、メッセージとしてのインパクトを持たない。そういう映画としてみると、この映画の本質を見失う気がする。

この映画の本質は、もっと単純なところにあって、この「夢」たちは、本当に黒澤さんが幼い頃から見た夢の数々なのだ、と解釈した方が正しい気がする。そういう夢をたどることで、この映画は、「黒澤明」という人間の精神史をそのまま表現した、自伝的な映画なのだ、と捉えるべきなのじゃないかな。自然と交感する中で自らの色彩感覚を磨いた幼年時代。苦難の時代を必死に前進した青年時代。戦地に斃れた同胞たちへの思いにつぶされそうになった戦後。表現ということに対して絶望し、時に自分自身すら傷つけた壮年時代。核の恐怖と終末観に押しつぶされそうになった中年時代を経て、自然と共におおらかに死を迎えようとする晩年。その年代その年代に自分が本当に見た「夢」たちを映像化することで、自分自身を見つめなおした、まさしくプライベートフィルム。

「八月のラプソディー」や、「まあだだよ」というのも、黒澤さん自身のお孫さんとの交歓や、映画製作スタッフたちと自分の間の家族のような交情をそのまま映した映画のように、私には思えるんです。そう思ってこの「夢」という映画を見た時に、黒澤明という人がたどってきた時代の変遷そのものと、その時代時代が抱えていた問題点が、まさしく極彩色にいろどられた豊かなイマジネーションで語られていることに気付く。これは黒澤さんの精神史であると同時に、昭和という時代そのものの歴史をたどった映画でもあるのです。

でも、黒澤さんはやっぱりエンターテナーなんですね。エンターテナーは宿命として、「独りよがり」に堕すことを本能的に嫌います。いかに自分の極私的な経験を表現しようとしても、きちんと観客に「何かを伝えねば」と思ってしまう。それが、映画の色んなところに散りばめられている政治的なメッセージとして現われた時に、ある意味浅薄な、説教くさいメッセージ映画、という側面が出てきてしまう。この映画の最大の弱点は、黒澤さんがそういうエンターテナーとしての宿命を背負っていたこと。観客にわかってもらおうとする努力が、映画自体の完成度を低めている。黒澤さんくらいになったら、完全にプライベートフィルムとして割り切ってしまってもよかったような気がするけど、逆のプレッシャーもあったんでしょうね。一つ一つの夢が、夢として、というよりも、物語として完結しすぎている、その整理されたたたずまいが、かえって整理されすぎていて面白くない。

この「夢」という作品、制作にスピルバーグやルーカスが協力した、という話題が先行して、その内容についての評価をあまり聞いたことがありませんでした。というか、黒澤さんの映画を語るときに、やたらと、「昔の白黒作品は面白かったけど、カラーになってからつまらん」ということばっかりが強調される気がする。でもねぇ、「デルス・ウザーラ「乱」「影武者」、どれもすごい映画だよ。この「夢」という映画の極彩色の世界を見ても、「やっぱり白黒の作品がいい」なんて言ってる人がいるけど、逆に、これだけの色彩感覚の映画を撮れる監督が今どれだけいるっていうのさ。タルコフスキーの「サクリファイス」や、アンゲロプロスの「シテール島への船出」を思わせるような、意味と重みと存在感を持った色彩たちを、これだけフィルムに焼き付けられる人はそうそういないよ。

メッセージの古臭さを除いても、一つ一つの「夢」の存在感と奔放なイマジネーションは実に魅力的です。黒澤さんの晩年の映画の中でも、最も刺激的な作品と思いました。と同時に、映像におけるタルコフスキーの影響を結構感じたなぁ。ラストの水の映像はまさに、タルコフスキーの「惑星ソラリス」のワンシーンそのもの。全てを浄化し、全てを受け入れる「水」のイメージは、タルコフスキーの諸作品に共通するイメージですが、晩年の黒澤さんも、最後には「水」にたどり着いたんだなぁ、と、タイトルバックを見ながらそんな感慨を持ちました。

しかし、池辺晋一郎さんの劇伴は、「そのまんま」という感じで、なんとなく「クサイ」なぁ。