「国境の南 太陽の西」〜村上春樹版「それから」〜

村上春樹、という作家への思い入れについては、以前、この日記で書いたことがあったと思います。あんまり思い入れが強すぎて、「ノルウェイの森」で違和感を感じてしまい、そのまま少し遠ざかっていました。多分、そういうファンは多かったと思う。「ノルウェイの森」は異常なまでにヒットしたけれど、村上さんの前後の作品を見る限り、これは極めて実験的な作品だった、と思う。その実験性が、当時の私には拒絶反応をもたらしたんでしょう。

一つの極めて表層的な事柄を取り出してみれば、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」までの諸作品において、村上さんは登場人物に固有名詞を用いることがほとんどなかったように思います。それは、作品世界に抽象性と普遍性を与えると同時に、どこかリアルな生々しさを回避した、ファンタジー性を担保する効果がありました。しかし、「ノルウェイの森」「ダンス・ダンス・ダンス」あたりから、登場人物が固有名詞を持つようになり、それと同時に、人物にはどこか生々しい存在感が生まれてきました。「ノルウェイの森」で強烈に感じた違和感は、そういう生々しい人物たちが、極めて個人的な感傷を表出しているそのリアリズムに対してだったんでしょう。村上さんのファンタジーを愛していたのに、そのファンタジーがいつまでたっても現われてこない失望。

「国境の南 太陽の西」は、その「ノルウェイの森」の後、4年後に書かれた長編小説。そういう背景などはあまり意識せず、図書館で借りる本を漁っていて、「食わず嫌いしないで久しぶりに村上春樹を読んでみるかね」と、何気なく手に取りました。先週読了。すっかりどっぷり首まではまり込む。「ノルウェイの森」にあった生臭い女々しさのようなものが後退し、もっと冷徹で、もっと洗練されていて、もっと落ち着いていて、それでいながら、深く切実。

この本が、発刊当時不評だった、というのも分かる気がします。「ノルウェイの森」に熱狂したのは、「純愛」という胡散臭い言葉に象徴される、ドロドロ恋愛ドラマやソープオペラ大好きの、どちらかといえば生臭い人間像のぶつかり合いを好む読者層だったのでは、と想像。そういう人々からすれば、「国境の南 太陽の西」は、あまりに抽象的すぎて、登場人物に入れ込めない。そして、村上春樹の初期作品を愛していた昔の読者層にとっては、相変わらずファンタジーが希薄に思えてしまう。

そういう不評に対して、村上さんは、もう少し時間が経ってから読んでもらうといいと思う、とおっしゃったそうです。自分の読者層の変遷を見事に見越した発言。ファンタジーにのめりこむのも、ドロドロ愛憎劇にのめりこむのも、一種、精神的な「若さ」のなせるわざ。ファンタジーにも幻滅し、ドロドロ愛憎劇にも疲れた年代になって、こういう無駄のない小説を読むと、実に効きます。

人生の成功者として、何不自由のない生活を送りながら、決して満たされない主人公の精神土壌は、バブルに踊り、ありとあらゆる経済的な富を手に入れながら、「これじゃない、僕の求めているものはこれじゃない」と思い続けていた当時の日本人の精神土壌を反映している。そういう時代背景を反映しながら、その「満たされない」思い、「不充足感」とでもいうような感情は、非常に普遍的な感情と思えます。小説の至るところで、漱石の「それから」を思わせる表現に何度も出会いました。島本さんを求める主人公の渇望は、友人の妻である三千代を求める代助の渇望に重なる。明治の遊民の「不充足感」と、バブル紳士の「不充足感」の共鳴。

この小説のラストを、決して満たされることのない現代人の不幸な立像として捉える人も多いと思いますが、私はむしろ、「不充足感」を内に抱えながら、お互い寄りそって生きていく人間同士の温かさ、ぬくもりを表現した、前向きなラストシーンと読みました。自分自身の願望かもしれないけどね。例によって、主人公の娘たちが自分の娘と同じくらいの年齢なものだから、「背中におかれた手のぬくもり」に希望を読み取りたいのかもしれない。でも、誰だって、どこか満たされぬ思いを常に抱えながら、今そばにいる身近な人々の手のひらのぬくもりを支えに生きているんだよね。ファンタジーからリアルへ、一歩前に踏み出そうとする決意表明のような、そんな小説として読みました。村上春樹さんの世界、もう一度たどりなおしてみようかな。