「ランメルモールのリュシー」〜どこまでも人間的な〜

先日、NHKハイビジョンで放送していた、「ランメルモールのリュシー」。ナタリー・デッセーがリュシー(ルチア)を演じていて、狂乱の場がとにかくものすごい、という噂を聞いていたので、早速録画。とりあえず、本放送で、ルチアの登場の場のアリアと、狂乱の場を見る。ほんとにものすごい。

デッセーさんという方は、以前、来日リサイタルのレポートをこの日記に書きました。とにかく大好きなソプラノ歌手。超絶的な歌唱技巧と人間的なドラマを完璧にシンクロさせることのできる稀有の歌手。この方のルチアの狂乱の場、というのは、多分普通の狂乱の場では収まるまい、と思いつつ、登場のシーンを固唾を呑んで待ち構える。ルチアの狂乱の場、というのは、本当によく知られた名場面ですから、このシーンが一体どう歌われ、演じられるのか、というのを、劇場の全員がまさに固唾を飲んで待ち構える場面だと思います。そういう期待感を、歌い手がたった一人で支えねばならない、ものすごい重圧のかかるシーンだと思う。

今まで私が見たルチアは、映像で見たグルベローヴァのルチア。演出の画面の美しさと相俟って、息を呑むような美しいシーンでした。あとは、新国立で上演されたチンツィア・フォルテさんのルチア。フォルテさんが美人、ということもあって、これもとても美しいシーンだった。共通していたのは、追い詰められ、夫殺しという大罪を冒して、精神の均衡を失ったルチアが、幻のエドガルドとの恋の成就に向かって、言ってみれば、「浄化」されていくシーン、として作られていたこと。この後、ルチアは死を迎えるわけだけど、不安や恐怖や失意から、次第に開放されていき、魂が天国に向かって旅立っていく過程をそのまま歌にしたような、そういう不思議な開放感。その開放感と、ルチアの純粋な魂の昇華が、現実の悲惨な状況との対比で、場面の悲劇性を際立たせる。

従い、グルベローヴァさんにせよ、フォルテさんにせよ、ルチアは極めて美しく、印象的な登場をする。ところが、デッセーのルチアは、穴倉のような狭い入り口から、まさに這い出るような、引きずり出されてくるような、そんな登場の仕方をする。あの大きな目を宙に泳がせながら、その瞳に映っているのは、決して浄化され、救済される魂ではない。そこにあるのは、絶望と、恐怖と、消し去ることのできない罪悪感。人を殺したことに対する罪悪感ではなく、一瞬でも恋人を裏切る道を選ぼうとした自分に対する罪悪感。その罪悪感と絶望に打ちのめされながら歌われる「狂乱の場」は、今まで見たどの狂乱の場よりも、救いがたい血の生々しさに満ちている。彼女の手のひらに残る血のぬめりが、聞く者の肌にまで届いてくるような。

グルベローヴァさんが、救済された魂の響きのように見事に鳴らした高音部分も、デッセーさんは、まさに喉から血を吐くような、搾り出すような絶望の叫びとして歌う。時には実際に舞台面に倒れ、這いずり、のたうちまわりながら歌われる「狂乱」は、見る人、聞く人を戦慄させるまでに凄惨で、決して救われない煉獄の苦しみに充ちている。緊迫感に満ちた場面に幕が下りると、思わず身を乗り出して見ていた目に、涙が流れていることに突然気が付くような。本当に食い入るように見入ってしまいました。

デッセーさんという人は、ドラマを外にゆだねるタイプではなくって、自分で引き受けるタイプの人なのかなぁ、と、ふと思った。色んな作り方があると思うのです。悲劇の中で、自分だけが幸福の絶頂にいる姿を見せることで、周囲の悲劇性が高まる、という作り方もある。今まで私が見てきたルチアは、明確にそういう作り方でした。デッセーさんのルチアは、自分の体の中に悲劇の全てを取り込んでしまって、壊れてしまった後まで、ずっと、「ごめんなさい、ごめんなさい」とつぶやき続けているような痛ましさで、見ているこちらが本当につらくなってくる。つらくなって目を逸らしたくなるのだけど、逸らせない。

あの小さな体で、上半身はもうほとんど半裸状態で、むき出しの細い腕や小さな乳房や背中が痛々しくってたまらなくなる。その絶望と罪悪感の深さが、かえってこの少女の純粋さと無垢さをあぶりだすような。成熟した女性ではなく、本当に無垢な少女の悲劇。今まで見たことのない、人間的な、あまりに人間的な、だからこそかえって純粋で繊細なルチア。早くちゃんと通しで見なければ。