昨日、上司と昼飯を食べながらだべっていました。ご近所の話になり、「お隣の息子が引きこもりになっちゃったみたいでさぁ」なんて話を聞いていました。それでふと思ったのですが、「町内会って、うちの近隣にはないなぁ」
我が家は、6年ほど前に、あるディベロッパーが12・3軒の建売住宅をまとめて販売していた中の1軒です。同じ一角にまとまって建った住宅なので、ディベロッパーさんも、「いずれ町内会のような組織を作られるんでしょうけど」という話をしていました。でも、6年たっても全然そんな機運がない。というか、町内会、という組織を作る必然性がないんですね。
昔は必ず、ご近所の「回覧板」というものがあって、町内の行事やお知らせが回覧されていましたよね。でも、我が家の近隣では、そういう行事や、共通の規律、という話が生まれない。あえて言うなら、ゴミ収集の日や、ゴミの集積所の使い方を守りましょう、くらいのことが、数少ない「町内での決まりごと」だった。でも、このゴミ収集も、調布市が戸別収集を始めるに至って、「町内の決まりごと」ですらなくなってしまいました。あくまで、個人の家と、調布市の間の関係、になってしまった。そこに、「町内」という組織が入り込む余地がなくなっちゃったんですね。
要するに、町内を一つにまとめねばならない共通の財産や目的、というものが存在していない、ということなんだと思います。農村であれば、田植えや稲刈りといった共同作業。先日もこの日記で書いた、柳川の掘割維持のための川さらいの作業。ご近所にお地蔵さんなどの宗教施設があれば、お祭りや掃除をする、といった、土地に固有の共通財産や共通の目的。そういうものが存在していない。これが多分、近所に巨大なマンションが建って、日照権という共通の財産が奪われる、とか、深夜営業の量販店のせいで住環境が悪化する、とか、何らかの共通の利害関係が発生すれば、「町内」というまとまりが生まれるのかもしれないんですが、幸い、我が家のご近所は至って平和で、そういう物騒な話もないんです。
ただ、個人的には、そういう「地縁」が希薄になったことを嘆く気にはあんまりなれない。自分自身が子供の頃から転勤族で、土地に対する愛着というものからは疎遠な人種だった、ということもあるとは思うのですが。例えば、女房の実家のある大船渡市あたりだと、過疎によって土地を捨てる人が増えているからこそ余計に、残った人々の間の「地縁」が強まる、といった現象が生まれている気もします。でも、東京郊外で、地元で商売をしているわけでもない我が家なんてのは、「地縁」に頼る部分ってのはかなり小さいんだよね。
でも、人間ってのは社会的な生物だから、やっぱり「縁」を求める。で、そうなると、どういう「縁」が生まれてくるか、といえば、「人の縁」ですね。最近では「ネットの縁」というのもかなりの力を持っているようですが。ガレリア座、なんていうのは人の縁で結びついた「ムラ」社会として成立している。「音楽」というのが共通の目的か、というと、そうでもなかったりするのが不思議。会社というのも「人の縁」で結びついた「ムラ」ですよね。経済活動によって利益を得る、というのが会社の目的なんだけど、その目的を社員全員があんまり共有してなかったりする、というのも、ガレリア座に似ているかもしれない。特に日本人には、そういう「縁」を求める傾向が強くて、往々にして「縁」が大事で、集団の目的が何か、というのが欠落しそうになるのかも。
昔の江戸の「講」や、「連」という人的ネットワークが生み出したパワーについて分析した、田中優子さんの「江戸はネットワーク」という本を読んだことがあります。江戸という都市でも、農村から離れて都市化するに従って、地縁ではない、「人の縁」で結びついたネットワークが生まれ、そこから、連歌や狂歌、戯作文学から浮世絵に至る様々な文化が生まれていった。ネットその他の「人の縁」で結びついた集団が生み出すもののパワー、という観点で、ガレリア座の活動なんかを客観的に見てみると、なかなか面白いかもしれない、なんて思います。