「のだめカンタービレ」〜形から入ること〜

のだめカンタービレ」完結しましたねぇ。岩松了さんと宮崎美子さんののだめ両親ぶりも笑えたけど、なんと言っても、ラストコンサートがサントリー・ホールだってのがかっこよかったなぁ。なんか、日本のクラシック音楽界が総力を挙げてサポートしている番組、って感じがした。サントリー・ホールだから、のだめがP席に座れて、千秋くんと正面からアイコンタクトするシーンも撮れたんだねぇ。

ドラマ「のだめ」については、出演者の皆さんが、楽器を実演する姿が堂に入っていてすごい、という話を、何回かこの日記にも書いてます。最終回でも、ただひたすらベト7の演奏が続いていて、それを演奏している(演技をしている)出演者が映っているだけなのに、訳もなく感動してしまう。それはなんといっても、ベト7という祝祭的な音楽の力がすごく強いのだろうけど、出演者の皆さんの、「演奏している演技」がすごく本格的に仕上がっていたせいもある。清良役の水川あさみさんも見事な弓さばきだったし、瑛太さんも頑張ってたけど、中でも、玉木宏さんの指揮の演技は見事だったねぇ。

以前から、この日記でも何度か書いていることなんですが、「演技」という行為が、自分以外の人格を表現する、という行為である以上、そこに、「普段の自分が絶対やらないこと」をやらないといけない、という壁が存在します。その壁をどう越えるか、演じるべき別の人格をどうリアルに表現するか、というのが、演技の一つの課題になる。

すごく分かりやすい例でいえば、「ガラスの仮面」で、北島マヤが「奇跡の人」の舞台に立つ前に、自分の目や耳をふさいで生活しようとする、というシーンがある。目も耳も聞こえないヘレン・ケラーを演じるために、自分が実際にその状態になってみる、ということで、「普段の自分」と、「ヘレン・ケラーという別の人格」の間にある壁を越えようとする試み。

ある時期のTVドラマでは、役者さんが直面するこの種の「壁」を、割と安易に、「吹き替え」という手段で超えるのが当たり前だった気がします。スポーツ根性モノもそうだし、音楽モノもそう。でも、安易に「吹き替え」でごまかすのではなくて、演じる役者さん自身が、「普段の自分が絶対やらないこと・できないこと」に挑戦して、それをクリアしていくこと自体が、色んな意味で作品の質を上げている例って、たくさんある気がするんです。

以前の日記では、それを、「役者が課題をクリアしていく過程が与える感動」という点に注目して論じた記憶がある。確かにそういう要素もあるかもしれないけど、別の要素もある気がする。「のだめ」の玉木くんの指揮ぶりを見ていて感動したのは、彼がその指揮をマスターした過程での努力を想像して、「すごいなぁ、よく頑張ったなぁ」という感動につながる部分も確かにあった。でも一方で、彼が指揮が上手になっている=彼がベートーベンの7番という音楽を、体で理解している・・・つまりは、「のだめ」というドラマの中で、千秋くんがたどってきた精神的な成長を、玉木くん自身が、指揮をマスターすることで追体験している、その二重構造が感動を生んだ部分も大きい気がする。

もっと分かりやすい例を取り上げてみましょうか。昔ヒットした、「麻雀放浪記」という映画がありました。和田誠さんの映画監督デビュー作。この映画の中で、真田広之演じる「坊や哲」というギャンブラーが、賭け麻雀で積み込みの技を吹き替えなしで一瞬でこなすシーンがある。このシーン自体、ものすごく緊張感あふれるシーンなんだけど、観客としては、「坊や哲」がこの離れ業をし遂げる緊張感と、真田広之さん自身がこの技を成功させる緊張感がシンクロして、興奮を助長する。そして、おそらくそれと同時に、演じる真田広之さん自身の中で、この技を身につけるための日々の鍛錬があり、それ自体が、この技をまさに自分の命をかけて身につけた「坊や哲」自身の生き様や、性格を理解し、体に落とし込むプロセスにつながっていたことが、感動を生んだんじゃないか。

簡単に言いきってしまえば、形から入ることで、内容も充実していく、ということなんですがね。天才指揮者である千秋くんを演じるために、玉木くんが一生懸命指揮を練習していく過程で、彼の中にベートーベンの7番がどんどん自然に身についていったはず。それは、千秋くんが得た、「音楽を全身で表現すること」を、玉木くん自身が身につける過程でもあったはず。つまりは、指揮という形から入ることで、千秋くんというキャラクターを演じるための本質をつかむことができたんじゃないか。

演技を含むパフォーマンスには、全てにそういう要素がある気がしています。形から入ることによって、演じるべきキャラクターの本質をつかむアプローチ。わりとそれをおろそかにして、「このキャラクターって、どういう人間だと思う?」なんていう頭でっかちな議論から入る人も多いと思うんだけど、意外と逆で、「この場面はこの人は早口でしゃべる」「この場面はこの人は高い声でしゃべる」なんていう、形からのアプローチから、キャラクターが明確に見えてきたりすることもある。以前、ガレリア座の演目を練習している時に、どうしても出演者の芝居がはっきり見えてこないので、「セリフを一つ言うたびごとに、相手に向かって一歩前に出てから言ってごらん」とアドバイスしたことがありました。一歩前に出てから、相手に向かってセリフを言う。それだけで、一生懸命に相手に伝えようとするセリフの勢いが、自然に出てくる。

音楽だと、そういう材料が、楽譜、という形で与えられている。その音符を正確に表現していこうと努力すること=形から入ることを重ねていく過程で、ふっと、「そうか、このキャラクターって、こういう人物だから、ここがこういう音なんだ」というのが分かる瞬間があったりします。それを瞬時に理解する才能が、「センス」ということだったりするんだろうけど、音楽的センスのない私みたいな人間でも、時々、「そうか」と思う瞬間がある。それが音楽で演じる楽しみだったりする。

のだめカンタービレ」の若い出演者たちの見事な「演奏している演技」を見ながら、そういう、形からクリアしていくアプローチってのも大事だよなぁ、と考えていました。娘は冒頭のマングースがサンタさんの衣装を着ているのを見て大喜び。そういう細かい遊び心も楽しかった。のだめちゃん役の上野樹里さんはじめ、出演者の皆様、スタッフの皆様、楽しいドラマをありがとうございました。