American Composers GALA〜ユダヤの精神とアメリカ音楽〜

アメリカがイスラエルの首都をエルサレムに定める、なんて言い出して、またぞろトランプ砲だよ、と世界中で騒いでおりますが、アメリカという国とユダヤ民族との間の絆や共通性みたいなことをちょっと考えたのが、12月22日に豊洲シビックセンターで上演された、柴田智子プロデュース「American Composers GALA〜アメリカ作曲家の祝典〜」。今日はこの演奏会の感想を。例によって浅学のたわごとも並びますが、ご容赦のほどを。


舞台の後ろの窓を開き、レインボーブリッジの夜景を背景にしたフィナーレ、ミュージカル「コーラス・ライン」より「One」。なんともゴージャス。

取り上げられた6人の作曲家のうち、ガーシュインバーンスタイン、ソンドハイムの3人がユダヤ系。もともと、バーンスタインの「キャンディード」を聞いた時に、理想郷を求めて世界をさすらうそのストーリ自体、ユダヤ民族の精神世界を濃厚に反映しているなぁ、と思ったんだけど、アメリカという国自体が、祖国を捨てて新世界を夢見たヨーロッパの貧しい人々の理想郷として建国されたんだよね。自らのルーツを捨てて新大陸を目指したがゆえに、自らのルーツへの意識を強烈に深層意識に守り続けている国民。それは、理想郷を求めて世界を彷徨い、決してどの土地にも定住することができずにいながら、ユダヤという自分のルーツを2500年以上に渡って守り続けているユダヤ民族の精神世界と親和性が高いのかもしれない。

ダグラス・ムーアの「ベイビー・ドゥのバラード」に描かれる西部開拓時代のアメリカの姿は、彼らが夢描いた理想郷がいかに底の浅い薄っぺらなものだったか、という失望感と、それが失われてしまった時に彼らが帰るべき故郷を持たないことへの悲哀が垣間見えて悲しい。民謡風の「Willow song」で演奏会が始まると、どこかで「オセロ」のデズデモーナの「柳の歌」を想起してしまう。そこに、アメリカが守ろうとする欧州の伝統を感じるのはちょっと深読みのしすぎか。

ヴィクター・ハーバートのオペレッタの曲なんか聞くと、正統派のウィーンオペレッタと聞き間違うような本格的なチャールダッシュだったりして、当たり前だけど、アメリカの音楽って欧州音楽の引き写しからスタートしたんだよね、というのを納得。そこにガーシュインの「ポギーとベス」のような、黒人音楽からのジャズのリズムが加わって、オペレッタがミュージカルへ変質していくプロセスは、アメリカが人種や文化の混合やクロスオーバーから新しいものを生み出してきた、その衝突のエネルギーこそがこの国の活力だったことを思い出させてくれる。今それを捨てようとしているアメリカってどうなのかな、とは思うよね。

それでもやっぱりクラシック音楽の伝統というのは欧州だよね、という意識もアメリカには強くて、欧州のオペラがどんどん先鋭的な演出を取り入れる中で、METは頑なに保守的な舞台を守っている。そのMETのこけら落としで演奏されたのが、サミュエル・バーバーの「アントニークレオパトラ」というのは色んな意味で納得しちゃった。バーバーといえば「弦楽のためのアダージョ」が有名で、イタリアの伝統に則った立派な欧州音楽を書く人。しかも「アントニークレオパトラ」の脚本は、イタリアオペラの生ける伝説、ゼフィレッリですよ。どこまでも正統で押してくるMETの保守性って、スタートからそうだったんだね。

イタリアの正統を基礎に、きわめて知的な音楽を作るバーバーの諧謔に満ちた歌曲「緑の草原のピアノ」と、「アントニークレオパトラ」の難易度の高いクレオパトラのアリア「衣装をとって!」を任されたのがうちの女房で、11月末から12月にかけて3つの本番が連続する中、最後に設定された一番高いハードル、と、時間を見ては入念に取り組んでおりました。その甲斐あって、濃厚な舞台空間を作れたのじゃないかと思います。

ちょっと別の話だけど、ゼフィレッリやバーバーのような性的マイノリティに対する寛容さ、というのも、アメリカ文化を支えている一つの要素で、今それも捨てようとしているアメリカってどうなのかな、とも思うよね。

バーンスタインの「キャンディード」が放浪の民族であるユダヤ民族の精神を反映している、というのはさっきも書いたのだけど、「ウェストサイド・ストーリー」の「Somewhere」を聞いて、あ、これも「どこかにあるユートピア」を歌うユダヤの歌だね、と思った。そう思ってこの曲を聞いたのは初めて。考えてみればヒスパニックと白人の対立、というのを正面から描いたのもこのミュージカルの革新性で、かつて黒人がアメリカ音楽に革新をもたらしたように、現在アメリカに活力を生み出しているヒスパニックの流入を拒絶しようとしている今のアメリカってどうなのかな、とまた思う。

ソンドハイムのミュージカル、「カンパニー」「リトル・ナイト・ミュージック」は、そんな歴史を経て成熟したアメリカを感じさせる大人の曲。建国240年を経て、世界第一の国になり、ある意味「理想郷」としての国家を完成させてしまうと、国ってやっぱり守りに入るのかねぇ。この国を成熟させていくプロセスで大きな役割を果たしたユダヤの精神に対して、アメリカが敬意を表すのは当たり前のことで、なんで地理的にも全然遠いアメリカがイスラエルの首都についてあーだこーだ言うんだろう、とか思うけど、ある意味必然なんだな。だったらアメリカ音楽の原点である黒人に対する敬意とか、アフリカ諸国に対するコミットとかもっとあってもいいんじゃないかな、と思うんだけどね。

音楽を聴きながら、アメリカという国のたどってきた歴史やその根底にある精神世界を思う、ゴージャスな中にも深イイ演奏会でした。プロデュースの柴田智子さん初め、共演者の皆様、お疲れさまでした。女房はこれで今年は歌い納め。今年もこれで暮れてまいりますが、皆様よいお年をお迎えください。