宮西一弘テノールリサイタル「美しき水車小屋の娘」〜ちゃんと「見える」人になりたいなぁ〜

昔、大学で、英会話の基礎力を向上させる、というクラスを受講したことがありました。いわゆる「スキット」と呼ばれる会話例をひたすら暗記していく、という授業で、会話例の中には、日常会話で使われる慣用句がふんだんに含まれている。ひーひー言いながら暗記していると、先生が、

「こういう慣用句はね、自分が使えるようになると、相手が使っているのを聞き取れるようになる。スピーキングができることで、ヒアリング能力が高まるんです」

とおっしゃった。今でも妙に覚えている言葉。

音楽にも同じようなところがあって、自分の歌唱技術や経験値が上がってくると、他の歌い手さんが使っている技術がクリアに見えてくる感覚がある。「自分が歌えるようになると、人の歌が聞き取れるようになる」感覚。でも、英語とはちょっと違うのは、必ずしも「自分が歌えるようになる」必要はなくって、自分の歌唱技術の足りないところ、いくらやっても身に着かない部分が「自覚」できるようになるだけでも、他の歌い手さんの素晴らしい技術や能力、努力や工夫が聞き取れるようになる気がします。

ほお、偉そうに、お前さん、そんなに歌が上手になったのかえ?と、誰かさんに鼻で笑われそうだけど、むしろ逆で、いつまで経ってもさほど歌唱技術が上達しない私でも、10年前よりは少しは聞き取れるものが増えている、だったら、もっと高みに到達している人には、もっと見えているんだろうなぁ、と思うわけですよ。そういう人たちが見えてるものを、私も見たい、とすごく思う。努力じゃどうにもならない部分もたくさんあるのは分かっているんだけどさ。でも、少しでも見えるようになりたい。そしてそのためにはきっと、自分が歌えるようになる、あるいは、自分に何が足りないのかをちゃんと自覚できるようにならなければ。

なんでそんなことを急に、というと、先日、23日に、色んなご縁でお知り合いになっている、テノール歌手の宮西一弘さんの、「美しき水車小屋の娘」全曲演奏会を聞きに行ったからです。西国分寺駅前の、国分寺市いずみホールで行われたこのコンサート、宮西さんのシューベルト歌唱ももちろん楽しみだったのだけど、なんといっても伴奏者が、あの河原忠之先生!この先生の伴奏で宮西さんが歌う、というこのコラボレーションに期待いっぱい膨らませて会場に向かいました。そして、期待を裏切らないどころか、期待をはるかに超えて、一種衝撃すら感じるような見事なコラボレーションに浸ることができました。

歌曲って、本当にピアニストと歌い手の二人で作り上げていくものなんだなぁ、と思う。冒頭の河原先生の序奏から、水車がコトコトと動き出す。そこに弾ける日の光、清らかな水のしぶきが見える。河原先生のピアノが、キャンバスに風景を緻密に、繊細に描きあげ、その上に、宮西さんが、鮮やかな色彩で、本当に真摯に、まっすぐに、歌曲への思いを塗り重ねていく。決して自己主張しすぎず、ひたすらに楽曲への愛情と、楽曲の魅力を伝えたいというストイシズム、考え抜かれた計算と、今持っている自分の引き出しの全てで、その計算を実現していこうとする誠実さ。そんな宮西さんのまっすぐな情熱を、河原先生が大きく包み込み、その技術や思い、呼吸を、さらなる高みへと導いていく。ふわっと受け止めてはさらにぽーん、と投げ上げる感覚、そしてそれに、ただ漫然とついていくだけじゃなくて、投げ上げられた高みで精一杯に手を伸ばして、自分の思い描いた以上のシューベルトの世界を少しでも垣間見ようと、必死に伸び上っていく宮西さんの思い。

決してオペラティックな歌唱じゃない、極めてまっすぐなリート歌唱なのに、風景が、登場人物が、物語がしっかり伝わってくる。ドラマティックな歌唱ではないのにドラマティック、というのはどういうことなんだ。「水車小屋」に象徴される古き良き時代への郷愁と、失われてしまった青春の輝きに対する限りない哀愁。終曲では思わず胸が詰まるような思いになる。「冬の旅」のような絶望と孤独ではなく、今まさに壮年の入り口に立った宮西さんだからこそ表現できる青春の輝きと、哀悼の挽歌。

でもね、自分でそういうことを感じながら、思いながら、例えば、河原先生がどれほどすごいピアニストか、ということを、自分がちゃんと事前に知識として持っていなかったら、本当に、そういう河原先生のテクニックや呼吸に意識が行ったかな、と思うんです。日頃の宮西さんが、シューベルトだけでなく、日本歌曲や合唱曲も含めて、音楽全般に対してどんな姿勢で臨む人か、ということを知っていなかったら、「水車小屋」に対してこんな感想を持つことができただろうか、とも思う。知識は音楽鑑賞上の先入観にもなるかもしれないんだけれど、でもやっぱり、知っているからこそ見えてくるものってきっとある。

そういう意味では、実は私にとって、今回が「水車小屋」を全曲通して聞いた初めての機会だった、ということも、すごく残念な気がしてくる。録音ですらしっかり全曲を聞いたことがない。もし事前にもっと色んな人の「水車小屋」をしっかり聞き込んでから、この演奏会に臨んだら、またもっと別な光景を見ることができたかもしれない。

もちろん、一方で、今回の宮西+河原コラボの「水車小屋」が、自分にとっての初「水車小屋」だったことの幸運、というのも感じるんです。今の宮西さんの年齢と技術が、「水車小屋」の世界に見事にマッチしていた。こんな「水車小屋」は中々聞けないかもしれない。宮西さんはきっと、もっともっと上手になるだろうし、もっともっと深い表現ができるようになるんだろうけど、でも、この2017年3月23日の瞬間の「水車小屋」の清冽さは、もう二度と再現できない。まさに一期一会の場に居合わせた幸運と、こんな瑞々しい「水車小屋」を聞けた幸運。

終演後、一緒に行った女房が、「全曲の中で、一瞬、河原先生と宮西くんの身体の動きがものすごく鮮烈にシンクロした部分があったんだ。『Mein!』のあたりだったと思うんだけどなぁ。そこで物語が大きく転換する一瞬、空気が変わるのが見えた。あれはすごく二人で意図的にやったと思うんだ」と言っていて、それを見逃した自分がものすごく悔しかった。もっともっと見えるようになりたい。もっともっと聞こえるようになりたい。まだまだ見えていないもの、聞こえていない音がいっぱいある。

宮西さん、河原先生、素晴らしい「水車小屋」でした。ありがとうございました。今後の益々のご活躍をお祈りしております。これからもずっと、応援し続けていきたいと思います。