東京シティオペラ協会「椿姫」〜くっきりとしたコントラスト〜

10月3日・4日の週末、くにたち市民芸術小ホールで、東京シティオペラ協会の「椿姫」が開催。女房が土曜日の公演でタイトルロールを演じました。身内がタイトルロールをやっているとなると、どうしても身びいきになってしまうので、今回は、印象的だった原純さんの演出に対する感想を中心に感想文を書いてみたいと思います。3日公演は全幕を、4日公演は前半のみを拝見したので、3日公演の感想を中心に。

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【総監督】川村敬一
【指揮】横山 奏【副指揮】澤村杏太郎・尾花拓音
【演出】原純
【ナレーション】矢島正明
 
<キャスト:()内は4日キャスト>
ヴィオレッタ】大津佐知子(小宮 順子)
アルフレード】三浦義孝
【ジェルモン】神田宇士(黒田 彰)
【フローラ】田中美佐子(冨岡 由理弥)
【ガストン子爵】大西啓善(稲垣 成人)
【ドビニー公爵】山本竹佑(佐藤 靖彦)
【ドゥフォール男爵】吉永研二(川村 敬一)
【医者グランヴィル】海下智昭
【アンニーナ】大橋郡子(加藤 麻子)
【合唱】東京シティオペラ協会合唱団
【エレクトーン】赤塚博美
【ピアノ】大杉祥子

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という布陣でした。

冒頭の舞台写真の通り、19世紀半ばのパリの時代を、シンプルでありながらゴージャスに表現した舞台美術。今まで3つの「椿姫」演出を見たことがあったのですが、それらと比べても、特に奇をてらうことのない古典的な舞台装置。19世紀半ば、という時代背景をしっかりリアルに表現しながら、原先生の演出は、その時代背景を徹底的に考証し、時代の巨大なうねりの中で小さな木の葉のように翻弄され、儚く散っていったヴィオレッタの悲劇を、くっきりとしたコントラストの中で見事に切り取ってみせてくれました。

19世紀半ば、オペラが爛熟期を迎えた時代はそのまま、貨幣経済が最初の急成長を見せ、ブルジョワと成り上がり貴族たちに巨大な富が集中した時代。まさに今の中国のように、パリなどの巨大都市に富が集中し、周縁の地方都市の従来型の経済が破壊された時代。結果、地方出身の子供たち、とくに女たちが、仕事、すなわち自分の身体を売って地方の家族を養うために、都市に向かってなだれこんでくる。グリゼット、お針子、などと呼ばれながら、ブルジョワや貴族の囲い者になって華やかな生活を営むことを夢見た女たち。そういう意味で、ヴィオレッタと「ラ・ボエーム」のミミは同じ種類の女で、他のオペラ作品やオペレッタ作品にも、同種の女たちは無数に登場すると思います。そしてそんな女たちの末裔が、大正時代の日本で「モダンガール」と呼ばれた女たちでした。

原さんは、女房に向かってこんなことをおっしゃったそうです。「そういうパリの女たちの頂点に立ったヴィオレッタを囲っている巨万の富を持つドゥフォール男爵が、貴族社会の中で再低位である男爵の爵位しか持っていない、というのも象徴的だと思うんです。成り上がりの新興貴族が、金の力にあかせて社交界の最高の名花を自分のものにする。しかし、どこかで社交界の中では馬鹿にされているし、ヴィオレッタも、そんな男のものになったことを潔しとはしていない。そういう姿も見せたいんです」と。

序曲、幕が開くと、まさにドゥフォール男爵との情事を終えたばかりのヴィオレッタが、バスローブをまとっただけの淫靡な姿で立ち尽くしている。そんなヴィオレッタに札束を投げ出すように与え、その体をむさぼるドゥフォールの野卑な印象と、病んだ身体を男に任せながらどこか虚ろな表情を見せるヴィオレッタ。序曲で描かれるこの二人のパントマイムで、二人がそれぞれの場所で時代に翻弄される悲劇の人物であることが明確に暗示される。いきなり冒頭から演出の意図をまっすぐにぶつけられるのだけど、それが決して違和感や嫌悪感を生じさせない。「修道女アンジェリカ」の時にも原さんが見せた、人物も含めた空間造形のセンスのよさで、一つ一つのシーンが実に美しく造形されていく。ドフォール男爵を演じた吉永さんの立居振舞も見事で、単純な悪役とは言い切れないこの役を端正に演じてらっしゃいました。

一幕、ヴィオレッタの館に集う女たちが、ヴィオレッタの座を狙って富に群がるパリの女たちであることが明確に示されるシーンが随所に出てくる。女たち同士の取っ組み合い、足の引っ張り合い、そんな女たちに札束をばらまく男たち。男の歓心を得ようと媚を売り、ライバルを中傷する女たち。その中でひたすら孤立していくヴィオレッタの姿。これがもっと高位の、公爵や侯爵などの囲い者であったなら、ここまで露骨な女たちの敵意をぶつけられることもなかったかもしれない。ヴィオレッタ自身の中にある、富と快楽に溺れる思いと、純性を求める思いとがぶつかりあう頂点に、一幕の「そはかの人か」が激しく歌われる。そんな彼女の中の葛藤が明確なコントラストで描かれた一幕が終わると、友人の中には、「一幕から涙が出てきた」と言う人がいました。「椿姫」は三幕にドラマのクライマックスがあるはずなのだけど、原演出だと一幕でいきなりガツンと山場が来る。

二幕、原演出の真骨頂とも言えるのが、父ジェルモンとヴィオレッタの二重唱。ここで原さんは、オペラに描かれなかったジェルモンの娘、アルフレードの妹を実際に登場させ、ヴィオレッタに引き合わせるのです。

本来この二重唱では、ヴィオレッタの純粋な愛情を理解したジェルモンが、ヴィオレッタに同情と慈愛を見せ、「お泣きなさい」と語りかける歌詞があるのに、その歌詞自体が、泣き崩れるジェルモンの娘に向かって歌われる。ジェルモンを「娘のように抱いてください」と嘆願するヴィオレッタの腕も、無慈悲にふり払われてしまう。田舎貴族の父ジェルモンには、娼婦という汚れた女、ヴィオレッタに同情も理解も示せないはず、という、原さんの解釈が非常に分かりやすく示されるシーン。

「アンジェリカ」の時にも、ひょっとして原さんはサディストなのかも、とちらっと思いましたが(いやいや)、ジェルモンが徹底的にヴィオレッタを拒絶することで、三幕への伏線がしっかり引かれる。むしろそうなると、二幕二場でヴィオレッタを徹底的に侮辱するアルフレードに決闘を申し込むドゥフォール男爵の方が、よっぽどヴィオレッタの理解者なんじゃないか、と思ったり。でも、ヴィオレッタは結局、自分を汚した金と富、つまりドゥフォール男爵と決別し、愛に生きることを選ぶ。身に着けた豪奢な装飾品を一つ一つ捨てていくヴィオレッタの姿は、その結果としての自らの破滅を、死に向かう道を覚悟した、死に支度を整えているかのようにすら見えてくる。

そうなってくると、三幕のラストシーンが、全てヴィオレッタの幻想であった、という結末はもう必然になってくるのだけど、唯一演出家の優しさを見たのはラストシーン。愛を誓ってくれたアルフレードも、娘として抱いてくれたジェルモンも、アンニーナやグランヴィル医師すら幻となって闇の中に消えていった後、たった一人残ったヴィオレッタが包まれるのは、真っ白に輝く光。一人死へと旅立っていくヴィオレッタの姿を包むまばゆい光は、儚くも激しく生きたヴィオレッタの短い生涯を照らす救いの光のように思えました。

ソプラノ歌手ならだれもが憧れるこの役、これまでの音楽活動と努力の蓄積で勝ち取ったこの役を、最後まで演じきった女房どの。ギリギリのところまで攻め込んで、ギリギリのところで踏みとどまって、今の自分のできる最高のヴィオレッタを出し切った舞台だったね。伴奏、ナレーション、スタッフ、そして素晴らしい共演者と舞台に恵まれて、こんないい公演でこの役を演じきれて本当によかった。お疲れ様でした。これからも色んな舞台が待っているけれど、今回の経験は大きな大きな財産になると思います。お世話になった東京シティオペラ協会の皆様、共演者の皆様、今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。