更新滞ってますねー

最近本当にこのブログの更新が滞っていますねー。色んなインプット・アウトプットはあるのだけど、FACEBOOKで情報発信しているせいもあって、ちょっとしたイベントや感想などはそちらで発信してしまう。ブログに書くのはかなり時間のある時に、割と煮詰めた話をまとめて書く、という感じになってきているので、どうしても滞りがち。ずっと読んでくれている人もいるようなので、申し訳ない限りだし、自分の生活の日記帳にもなっているので、ちょっとまずいな、という感じです。

今日はちょっとたまっているいろいろを。

合唱団麗鳴では、8月末の演奏会に向けて今までの練習のまとめに入っています。中でも、ポップスの名曲をメドレーにした三沢治美さん編曲の「SORA」という曲で、演出付のステージを仕上げることになって、私を中心にしてその演出舞台を作り上げているプロセス。舞台演出を付けるのはかなり久しぶりなので、勘がなまっているなーと思うところは多々あるんですが、やる気のある団員さんたちや中館先生の色んなアイデアに支えられて、なかなか面白いステージになりそうです。

合唱団が演出付のステージをやることについて、女房のお知り合いの合唱指揮者がネットに書いてらっしゃったのですが、「普段指揮者の表現をいかに具体化するか、という受け身の姿勢に慣れている合唱団が、自分から体を動かすことによって、自分から表現することの面白さに目覚めていく、そのプロセスが大事」という記事を見たことがあります。実際作ってみて難しいのは、そういう「自分から表現すること」に対して面白さを感じる人もいれば、それが重荷と感じる人もいたり、色んな団員さんがいること。麗鳴は結構意欲的な団員さんが多いので、みなさん楽しそうに色んなアイデアを出してくれたりするのですけど、本当にみなさん全員が楽しく歌える舞台に仕上げることができるか、錆びついた頭で色々と悩んでいる日々です。頭で描いていたよりも素敵な絵が出来上がったりするとわくわくするんですけどね。

演出舞台の他にも、萩原英彦の「深き淵より」や、先日やったNコン課題曲、ブラームスブルックナーなど、盛りだくさんの演奏会。夏休み最後の週末、8月31日(土)ウィーンホールにて、みなさんをお待ちしております。入場無料です。是非ご来場ください!


団員さんデザインのチラシ。毎年本当に素敵なチラシだよねー。

話は全く変わって、ついに出ましたね、「みをつくし料理帖」最新刊「残月」。正直申し上げれば、今までの本に比べると、ストーリ的には結構弱い感じがあるんだけど、シリーズがここまで醸成されてくると、そういう展開の甘さとかも全然許せる気になってしまう。というか逆に、「ご都合主義的でもなんでもいいから、あの人たちの今の様子を教えてよ!」という気持ちになってしまっていて、サービス精神を忘れない高田郁さんが、「あの人たちのことも気にしてる読者がいるよねー」とぶつぶつ呟きながら、そういうピースを納めるべきところに収めていってくれる感じがあって、それがなんとも心地よい。

澪と野江の生きる道がどんな駅にたどり着くのか、そしてそこからどんな再出発を遂げるのか、まだまだ目が離せないけれど、きっとみんな抜けるような青空の下で笑顔になってくれる、そう信じて読み進めていきたいと思います。


みんな本当に幸せになってねー

みをつくし料理帖」を読んだ後、ちょっと重厚な日本語に触れてみたくなる。そういう時に、いつも何となく手に取るのが、柳田国男の「一つ目小僧その他」。今回ちょっと腰を入れて読み進めてみたのだけど、以前読んだ時にはなかった知識がふっと結びついて面白かった。以前読んだ時にはまだ京王線沿線に住んでいなかったんですが、今回読んでみて、「代田橋」の「ダイタ」というのはダイダラボッチの「ダイダ」で、昔代田橋の近くに、ダイダラボッチが歩いた足跡、という大きな沼があったのでこの地名がついた、という話が出てきて結構興奮。そうだったのかー。

それ以外にも、管狐、という妖怪の話が出てきて、これが少し前に読んだ「半七捕物帳」に出てくるモチーフなんですね。色んなことがつながってくる面白さ、というのは読書の一つの醍醐味で、それを基礎教養、と言ってもいいのかもしれないけど、その知識があるとないとで本の面白さが変わってくる。以前この日記に書いた、「ビブリア古書堂の事件帖」だって、取り上げられている作家の本を知っているかどうかで全然変わってくるもんね。

柳田国男が「一つ目小僧」論で展開した、「一つ目小僧は、人身御供としてまつられた生贄の人々を、人為的に片目片足に傷つけた習慣の名残である」という論は、今読むとちょっと飛躍にすぎる気がします。そういうこともあったかもしれないけど、単純に昔は眼病や怪我というのは頻繁に起こっていただろうと思うし、過酷な山の暮らしであればそういう危険性も大きかったろう。一つ目小僧というのはむしろ、欧米などにも根強く存在している「奇形に対する崇敬」の念から発しているのかな、という気がしていて、何かしら体に障害を負って生まれてきた人たちが見せる奇跡のような生命力や、時に常人を凌駕するような超感覚的な五感の発達、というものに対する畏敬の念が、妖怪という超自然的なものへの昇華につながったのじゃないか、と思っています。

伝説や民話のモチーフや原始宗教を語る時に、性の営み、というのも避けて通れないことなんじゃないかな、と思っていて、蛇神への崇拝や、ウナギに対する日本人の異様な愛着というのは、形態が男性器に似ている、ということと不可分なんだろうな、とも思う。以前読んだ本に、お正月の鏡餅というのは蛇がとぐろを巻いた姿を模したものだ、という論を展開している本があったんだけど、鏡餅はもっとストレートに、抽象化されたペニスとして見た方が自然な気がする。柳田国男の評論の中にはそういうストレートな部分は上手にオブラートに包まれているのだけど、記述の端々に見え隠れするバーバリッシュな日本の原始宗教の匂いが好き。

そういう目を養った後で、最近文庫になった宮部みゆきさんの「あんじゅう」を読んだら、第一話がまさにそういう土地神のお話。こうやってつながっていくんだなぁ。半七捕物帳を読み漁った後で、宮部みゆきさんの時代物を読むと、ものすごく影響を受けていることがよく分かるしね。こういう「つながる読書」というのがいい。