その場にいなかった

今日、世界中の日本人が、1年前、自分は何をしていたか、思い返していると思います。私はといえば、アメリカにいました。東京に女房と娘を残して、アメリカにいた。あの揺れも、その後の交通網の混乱も、帰宅困難者の困惑も、全てはTVの中の出来事でした。NJの我が家の周辺は何事もなかったように穏やかでした。

阪神淡路大震災が起きた時にも、TVに映る懐かしい街並みがなぎ倒されている映像を見るだけだった。NYに行って、9.11を現場で体験した人の話を聞いても、私が体験した9.11は、やはりTVの映像でした。

娘は、NJの日本人学校で、震災の怖さや大変さを、先生方が生徒さんたちに説明しているのを聞きながら、どうしても素直にそれを聞くことができなかったそうです。「先生だって、あの場にいなかったじゃないか」と。自分はあの揺れを知っている。商品棚が空っぽになったスーパーを知っている。ひっきりなしに起こる余震を体で感じている。その場にいなかった人が、いくらその恐ろしさを語っても、あの大地の震動を体で感じた人間には伝わらない。

自分がその場にいなかったのは、別に自分のせいじゃないんですが、震災の映像に涙しながら、どこかで「あの時」を共有できない後ろめたさのようなものを感じます。遠く安全な場所から、ただ知己の安否を気遣うことしかできなかった自分。そのことを、ガレリア座の指揮者のN君に話した時、彼は、「遠いところから心配した、ということを含めて、『あの日』を共有したってことだと思いますよ」と言ってくれました。後ろめたさなんか感じる必要はないと。

その場にいなかった、ということ。これからも3.11が来るたびに、自分はその場にいなかった、ということを思い出すんだろうな、と思います。今日は女房の誕生日。去年、あの揺れの中で、女房に花を届けてくれた花キューピッドの花屋さん、ありがとうございました。あれからみんな、また1年歳をとりました。