「ファウスト」についての濃ゆい会話

この三連休、例によってガレリア座の「ファウスト」の練習を重ねていまして、特に昨日は、午後・夜と連続してのソリスト練習。相当「濃い」時間を過ごしました。今回メフィスト役で共演するNさんは、芸大の現役学生で、声楽を専門に勉強している学生さん。かつ、彼自身がとってもセンスがいい歌い手なので、色んな示唆をもらうことができます。自分の歌唱技術をもう一度基礎からやりなおさないと、という感じ。たいへんだぁ。

日曜日は、午後、女房が練習をしている間に、私と娘で「江戸東京博物館」へ。娘の感想は、「広すぎて途中で眠くなっちゃった」というものだったんだけど、見終わって、練習帰りの女房と合流。晩御飯がてら、ファウスト役のTさんと4人で、高田馬場駅の近くの「ひものや」という居酒屋で「ファウスト論議。これがやたらに濃い会話で、すごく面白かった。

例によって、会話形式で再現してみます。これから「ファウスト」を作っていく上で、色々と見方も変わってくるかもしれないけど、現時点での一つの「切り口」という感じで、メモに残しておこうと思います。
 
私:ヴァランティンという役は、一つの秩序を表しているのかな、ということを昔考えたことがあって、その観点で見直すと、「剣のコラール」という歌の位置づけがはっきりする。この曲は、メフィストの魔力で剣をへし折られたヴァランティンが、悪魔を退けるために民衆と共に祈る、という歌なんだけど、「コラール」=賛美歌というタイトルにあるように、宗教曲の形式を取っている。この曲において、ヴァランティンは司祭役になっていて、司祭の独唱に合わせて、会衆がそれを繰り返す、という形式になっているんだね。ここでも、ヴァランティン=司祭=秩序、という等式が現われている。

女房:ヴァランティンの性格を考える時に、一つのキーになるのは、ヴァランティンがマルガレーテからもらう「メダル」なんじゃないかな、と思うんだよ。N君も、「メダルってのが気になるんですよね」ということを言っていたんだけど、私は、「メダル」=「金の子牛」=偶像、という等号なんじゃないか、と思うんだ。もし、ヴァランティンが、本当にマルグレーテ自身を愛していたのであれば、ヴァランティンが死の直前にマルグレーテを呪いながら死んでいく、という姿が納得できない。結局、ヴァランティンはマルグレーテ自身を愛していたわけじゃなく、マルグレーテがくれた「メダル」が象徴する、貞節や純潔という「観念」を愛していただけ。そういう「貞操の観念」を象徴する「メダル」は、「財力の観念」を象徴する「金の子牛」に共通する偶像崇拝なんじゃないか、と。

私:そう考えると、ヴァランティンの「メダルの歌」の後に、メフィストの「金の子牛の歌」が出てくる、二つの歌が並んでいることっていうのも意味を持ってくるよね。

T君:それで一つ思い出すのだけど、ある「ファウスト」の舞台映像で、「金の子牛の歌」の時に、金の子牛の像が出てきて、それにマルグレーテの偶像が重なる、という舞台があったんだよ。財宝という偶像に酔いしれる民衆、貞女マルグレーテという偶像に酔いしれる民衆。その二つが同一のものとしてはっきり示される。

女房:それはすごい舞台だなぁ。マルグレーテの悲劇というのは、悪魔メフィストも、ヴァランティンも、「貞節を守れ」という秩序から照らすと、両方とも「正義」だ、ということなんだよね。善を象徴するヴァランティンからも、悪を象徴するメフィストからも、「正義」を振りかざして非難されてしまう。

私:そう考えると、マルガレーテというのは、マグダラのマリア、と読み替えることができるね。罪を犯した女であり、人は彼女を非難するのだが、キリストは彼女を救済する。つまり、神は、善悪を超えた彼岸にある存在である。そういう構造っていうのは、色んなヨーロッパの芸術の中で見え隠れする気がするんだ。大衆が振りかざす善が、偽善、あるいは神の意思に反する暴力に変貌していく中で、その大衆に虐げられる弱い者たちを神が救済する。「椿姫」なんかまさにそういう構造を持っているように思える。そういう、大衆=偽善=ヴァランティンと、それに踏みにじられる、マルガレーテ、という対立構造に対して、ファウストメフィスト、というのはどういう位置にあるんだろうか。

T君:多分ね、ファウストメフィストも、そういう対立構造の外にいるんだと思うんだな。ファウスト自身、ファウスト伝説が伝えるように、ある意味超人的な、人智を超えた存在として捉えられているし。ファウストの原作の前に置かれているプロローグで、神とメフィストの会話、というのがあるのだけど、それ自体も物語を超えた枠の中に存在しているメフィスト、という位置づけを表している。このプロローグってのが面白くてね、神とメフィストの会話の前に、詩人と劇団長と道化の会話っていうのが入っている。それが、今のガレリア座で舞台を作っていくことと重なって見えたりするんだな。

女房:そういえば、以前見たゲオルギュー・アラーニャの「ファウスト」の舞台で、教会で、群集とメフィストにマルガレーテが責められるシーンの演出に驚いたことがある。伴奏のパイプオルガンを弾いているのが、アラーニャ=ファウストなんだよ。狂言回しとしてのファウストを明確に示した舞台だったんだね。それに、「金の子牛の歌」でも、メフィスト自身が善悪の彼岸にいることが明確に示されている。「金の子牛」に群がる群集は、決してメフィスト=悪魔に操られているわけではなくて、自分で群がっていくんだね。メフィストは、ただそれを外から「はやし立てる」だけ。悪魔は「音頭とり」をするだけ。「金の子牛に群がるお前らも、メダルをあがめるお前らも、みんななんて馬鹿なやつらなんだろうねぇ」と、横であざ笑っているのがメフィスト

私:悪魔も神も、善悪を超えた存在である・・・という観点で言うとね、先日偶然、放送大学の「倫理思想の源流」という番組を、車に乗ってて聴いてたんだね。

女房:なんでそんなものを聴いておるのだねキミは?

私:一人で車を運転する時、放送大学聴くのが好きなんだよっ!でね、そこで取り上げられていたのが、旧約聖書の「ヨブ記」。信仰厚い裕福なヨブという人物の信仰に対して、サタンが神に疑問を投げかける。「ヨブは、自分が裕福になるために神への信仰心を持っているのであって、彼が貧しくなれば、彼の信仰心はきっと崩れますよ」・・・そう言われた神は、サタンに対し、ヨブに災いを与える権利を与える。ヨブは、財産も、沢山いた子供たちも全て失い、それでも信仰を失わない。そしてサタンはさらに、彼の全身を腫れ物で覆い、恐ろしい苦しみを与える・・・ここでの神は決して、「善」とは見えない。人にとっての善悪を超えた創造主としての神が示される話。

T君:それって、確かに「ファウスト」が示している善悪と神の観念に通じるよね。でもこの時期、ファウストをやろうとする時期に、Singさんがその番組を偶然聞いた、というのも、神の意思を感じるよなぁ。最近とみに思うんだよ。やっぱり神様っているよなぁって。
 
・・・と、話はずいぶんと深い所までたどり着いてしまいました。「ファウスト」を巡っての旅路はまだ半ば、6月の本番舞台まで、この壮大な地図を読み解く旅は続きます。