秋の実り

実りの秋、ということで、毎年、この季節には、田舎から色んな農作物が送られてきます。西宮の実家の庭で取れたカボチャのようなサツマイモ、丹波篠山の本場の栗、黒豆の枝豆・・・極めつけは丹波の松茸。先日お吸い物にしてありがたくいただきました。女房が気合入れて煮出したカツオ出汁も実に濃厚でおいしかった。

青森の親戚からは、新米が届く。この親戚が地主になっている田んぼがあって、稲作を農家に委託して、できた米を全部購入する、という契約をしているそうです。休耕田の増加を食い止めるために市民運動の一環だそうな。新米は水分が少なくても、粘りと甘みが強くておいしい。

栗は、先日、料理が上手なTさんご夫婦をお招きして、皮をむいてもらって栗ごはんにし、みんなでいただきました。新米と丹波栗を、土鍋で炊いた贅沢な栗ご飯。栗のほくほくさと米のねばりがたまらない。田舎が遠い、というのは、帰省の際など確かに面倒なことではありますけど、こういう山の幸、海の幸が産地から直接送られてくる、という恵みも与えてくれます。ありがたいこと。

秋の鮭の遡上を描いたテレビのドキュメンタリーを見たりしていて、いまさらのように思ったのですけど、こういう秋の実りというのは、人間を含めた哺乳類が、厳しい冬の寒さをしのぐための糧になるんだよね。逆に言えば、もし植物が、秋に大量の実りを生み出す、というサイクルを選ばなかったとしたら、哺乳類がこんなに栄えることはなかったかもしれない。そう思うと、自然の循環の中で「生かされている」という感覚をもう一度思い出したりします。冬の寒さがそのまま命を脅かすものだった時代には、秋の実りに対する感謝の気持ちはもっと切実なものだったはずだよなぁ。

女房と秋の味覚をいただきながら、「自分には農民の血が流れていると感じる」という話をする。庭の土いじりだの、下手な家庭菜園なんかをやっていると、三田の山の中でずっと稲を作っていたご先祖の血が自分に流れているのを妙に意識したりする。土をいじると妙に安心するんですね。このあたり、ご先祖が大工だった女房なんかは正反対で、「土を触るのがどうも怖い」と言います。何かしら、得体の知れないものが潜んでいるような気がするんだって。ある米作りの名人は、土をなめると、その土にあった米の品種を言い当てることができる、なんて話をどこかで読んだけど、女房からすると想像の外だねぇ。

士農工商という身分制度が失われて久しいけれど、先祖からもらった「血」に訴えるもの、というのはどこかで残っているのかもしれないなぁ、なんて思います。大工の血筋の女房は、「工」で、私は「農」の血が強いのかもしれないね。

なんてことを言いながら、「緑の指」ならぬ「茶色の指」を持った私の家庭菜園は常に荒れ放題。こりもせず、この3連休には、はつか大根の種を蒔きました。今度はどんな収穫になりますことやら。