「攻殻機動隊」「イノセンス」〜人間の進化〜

先日この日記に感想を書き損ねた「攻殻機動隊」に続いて、DVDに溜めていた「イノセンス」を先日見ました。押井守ワールドに浸る。

イノセンス」では、押井守さんのインタビューも見ることができて、何度か激しく共感しながら聞いていました。例えば、「イノセンス」の「エトロフ」の豪華絢爛たるお祭のシーンで、「とにかくものすごく情報量が多いのだけど、ねらっているのは虚しさ」とおっしゃっていた。激しくうなずく。意識はされていないと思うのだけど、「イノセンス」は、全編に渡って「ブレードランナー」にテイストがすごく似ている。バトーのアパートのシーンも、ディッカードのアパートのシーンに重なるし、「エトロフ」のシーンは、「ブレードランナー」の、あの大混雑の街頭でのチェイスシーンに重なるものがある。圧倒的な情報量、にもかかわらず、そこには何も映っていない、と思うような虚しさ。

ブレードランナー」は、人間と人間ならざるもの=レプリカントの対決を通して、人間ならざるものが得た「人間性」を描写した映画でした。人間ならざるものの方が、人間よりもより人間らしい。では、人間とは何なのか。「イノセンス」はその「ブレードランナー」よりも、さらに、P.K.ディック的世界に近づいている感がある。つまり、人間自体が人間ならざるもの=人形に近づいていった時に、一体人間と人形を区別するものは何なのか、という課題。さらにP.K.ディック的なのが、電脳へのハッキングという形で再構築される現実、つまり、幻想と現実の境界の消失。

攻殻機動隊」のラスト、戦車との博物館でのバトルにおいて、戦車が乱射した銃弾が破壊するのは、人類に至る進化樹の壁画でした。この進化のイメージと、それにつながる「人類の次に来るもの」というイメージは、押井さんの「天使のたまご」にも出てきたイメージ。「攻殻機動隊」が、拡大する電脳世界に接続することによって拡張された人間の意識と、電脳世界に生まれた擬似知性との接合(=一種のセックス)によって、人類が踏み出す進化を描いたのに比べ、「イノセンス」は、進化の果てに人類が「人形」という形態に行き着いてしまうこと、その「人形」の持つ人間性について突き詰めていく。

「人間がどんどん人形になってきている気がするんですよ。人間として生きていない。会社の中で、人形みたいに生きている。町を歩いていても、周りの人はみんな人形みたいでしょ。」そんな風におっしゃる押井さんが、唯一「生命」を感じるのが、飼い犬を抱いている時だ、というのが面白い。「風景化」という現象として聞いたことがある話です。周囲の人々が、町の風景の一部になってしまう。生きている人間であり、自分がコミュニケートする相手としての「人格」としてとらえられない。最近の若者が町で周囲の目を気にしないのは、周囲に「生きた人間の目」があると認識していないから。

攻殻機動隊」「イノセンス」、両方とも、すごく刺激的で面白い映画なんですが、観客に優しい映画ではありません。観客にそれなりの努力を強いる映画です。押井さんは、「「イノセンス」は相当サービス精神たっぷりに作ったんですがね」とおっしゃっていますが、過剰なセリフと過剰な情報量の後ろに隠れているストーリを掘り起こすには努力が必要。でも、掘り起こされたストーリは豊穣だし、盛り込まれたイメージは実に面白いです。

押井さんの作品はかなり「独りよがり」に陥るケースが多いし、「イノセンス」は押井さんが脚本だ、というので、また観客を置いてきぼりにしてどこまでも突っ走ってしまう可能性を危ぶんだんですが、プロデューサの鈴木敏夫さんとのコラボレーションがよかったんでしょうかね。ストーリが破綻しないでちゃんとまとまってる(笑)。「攻殻機動隊」はなんといっても伊藤和典さんの脚本がよかったし。同じタイミングで見た「アップル・シード」が、秋葉原系オタク少年の浅薄な欲望充足映画に堕していたのに比較すると、押井さんの映画はやっぱり面白い。