「妖星ゴラス」〜娯楽とは芸術とハチャメチャの狭間だ!〜

昨日は社外で研修があったので、この日記の更新もお休みしました。しかし、社外研修とかで出てくる講師っていうのは、どうしてみんなあんなに脂ぎっているのだろう。不思議だ。

今日は、週末にやっと見終えた、「妖星ゴラス」と、BSで夜やっていたメルビッシュ音楽祭の「マリツァ伯爵夫人」のことを書きます。なんでこの2つが並んでるのさ、という人もいるかもしれないけど、それはおいおい。

妖星ゴラス」、特撮映画、という観点でいえば、少なくとも私が見た円谷特撮映画の中でも最高の作品、と思いました。特撮シーンの完成度の高さがすごい。宇宙空間を疾走する隼号・鳳号のスピード感、妖星ゴラスの、まさに怪物のような存在感。土星の輪が崩壊し、ゴラスに吸い込まれていくシーンの緊張感と美しさ。月がゴラスに飲み込まれ、地球が必死にゴラスから逃れるシーンのカタストロフ。南極基地の壮大さ、水没した東京のシーンのリアルさ。ヘタをすると、最近のCG全盛の特撮シーンなんかよりもずっと質感があって美しい。円谷特撮のすごさ、という点で言えば、「日本誕生」のファンタジー、「ガス人間第一号」の人間ドラマに並んで、SF超大作の一つの頂点、と言える作品かもしれない。

でもねぇ、ストーリはねぇ。とんでもないよ。ほんとにとんでもない。無茶苦茶。ハチャメチャ。こんなとんでもない映画に、志村喬だの上原謙といった大俳優が顔を並べているのを見ると、なんだかすげぇ、と思っちゃう。普通、地球に向かって星が近づいてくる、って言えば、彗星くらいに納めるでしょう。「ディープ・インパクト」だって、彗星1個近づいてくるだけで「地球滅亡だ!」なんて騒ぐんだよ。彗星一個で騒ぐなよ。ゴラスは地球の6000倍だよ。彗星を爆破する、なんて、セコイセコイ。小さい小さい。地球の6000倍が相手なんだから、地球が逃げなきゃ。地球が動くしかないだろう。かくして、南極にずらりと噴射口を作って、地球がゴラスからスタコラ逃げ出す。すげぇ。ここまでやるかい。

そんなことしたら、南極の氷が解けて大陸水没しちゃうでしょう、なんてことは置いとく。そういうことは置いとくんだけど、「南極があったかくなったら、やっぱりコレが出てくるだろう!」って、セイウチ型の怪獣!が出てくる。さすが東宝特撮。ほんとになんでもあり。最後に池部良さんが、「これから地球の軌道を元に戻すことを考えなきゃ」なんて呟いているのが笑える。パイロット連中のミュージカル風シーンあり、これでもかこれでもかのてんこ盛り映画。これぞ、娯楽作品。

特撮映画、ということで見ていますけど、恐らく、この時代の娯楽映画の作り方、というのに、一つのパターンがあったのじゃないか、という気がしています。「妖星ゴラス」のハチャメチャさ加減を語るには、当時の「娯楽映画」のハチャメチャさ、というか、なんでもこいのてんこ盛り映画が量産されていた、という背景があるのじゃないだろうか。昭和30年代後半の娯楽映画、というのを、いくつか比較のために見た上でないと、「妖星ゴラス」を含んだ東宝特撮映画の一連の流れは語れないのかもしれない。

そもそも、「娯楽」というのが、一つのカタルシスを与えてくれるエンターテイメントをさすのであれば、なんでもありのてんこ盛り、という「娯楽」の方向性というのは確かにあると思うのです。物量作戦ですね。かなり前のこの日記にも書きましたけど、関西のケレンに通じる感覚。典型例が、タカラヅカ。これでもかこれでもかと大階段をでっかい羽根しょって下りてくる美女たち。あのカタルシス

でもそれがカタルシスを与えるには、徹底的に盛り込むけれど、徹底的に大真面目に、徹底的に真剣に作らないとだめ。やるなら徹底しないとダメ。「妖星ゴラス」が、その荒唐無稽なストーリにも関わらず、終盤の展開で思わず手に汗握ってしまうのは、やはり円谷特撮のクオリティの高さの賜物だと思います。南極を噴射口の青い炎に染めながら、ゆっくりと動く地球の重量感。そのすぐそばを不気味に通過する妖星ゴラスの赤い禍々しい色彩感。ここまで大真面目に、ここまでリアルにやられたら、もう手に汗握るしかないじゃん。

さて、ここで、冒頭に書いた、「マリツァ伯爵夫人」です。メルビッシュ音楽祭、というのは、以前にもこの日記に書きましたが、湖の上にしつらえた舞台の上で毎年オペレッタを上演している、というとても素敵な舞台。屋外ステージ、ということもあるのでしょうが、とにかく舞台が広く、しかも装置も大仕掛け。大勢のお客様に、とにかく楽しんでもらおう、という仕掛けがてんこ盛り。舞台のフィナーレでは必ず盛大に花火が上がる、実に祝祭的な舞台なんです。

祝祭的だから、徹底的に「娯楽」を追及している。この舞台にかかると、しっとりした「メリー・ウィドウ」でさえ、大群舞の一大エンターテイメントになる。それがガレリア座でも取り上げたことのある「マリツァ伯爵夫人」をやるという。ハンガリーの田舎の村で展開する牧歌的な恋物語。ある意味地味な作品だけど、どう料理するのかな、と思って、録画した映像を見て、序曲で女房ともどもブットぶ。

ハンガリーの田舎村の物語、ということで、冒頭、バレエダンサーたちが全員、アヒルだのカモだのニワトリの着ぐるみで、見事な群舞を踊るんです。鳥を襲いに来た犬が、ニワトリに威嚇されて逃げ出す。ひよこ達の群舞。これがもう、ほとんど子供向けのぬいぐるみショー。その後も、舞台に機関車が走るわ、サイドカーが走り回るわ、大騒ぎ。徹底的に「娯楽」を追及しながら、作っている振付や歌、演技は、当然ながら超一級のクオリティ。遊んでいても、ちゃんと見せるところは見せる。だからしらけないんですね。

「娯楽」というのは、どこまでもハチャメチャに、破天荒に、てんこ盛りに、お客が楽しめる大仕掛けを盛り込みながら、その一つ一つのクオリティを芸術的なレベルにまで高める、その狭間にしか存在しないものなんだ、というのを、二つの全然関係ないインプットから感じました。「マリツァ」の序曲が流れると、あのヒヨコたちしか頭に浮かばなくなっちゃったよー。