フィルハーモニア・シュランメルン・ウィーン〜舞台に立つということ〜

今日は、14日の土曜日に、オペラシティ・コンサートホールであった、「フィルハーモニア・シュランメルン・ウィーン」の演奏会のことを書きましょう。

フィルハーモニア・シュランメルン・ウィーン
特別ゲスト:中島彰子(ソプラノ)/ペーター・エーデルマン(バリトン

という布陣でした。

もともと、シュランメルン音楽と、オペレッタ音楽というのは非常に密接な関係がありますよね。シュランメルン音楽=ウィーンのホイリゲあたりの居酒屋で演奏される、小編成の楽器群の曲。その多くのレパートリーが、オペレッタの定番曲です。今回の来日メンバーは、バイオリン2本+コントラギター+アコーディオン+G管クラリネット、という編成でしたが、多分この編成もある程度自在なんでしょう。オペレッタと共通するウィーンの粋と、自在さをいたるところで感じさせる、実に楽しい演奏会でした。そもそも、舞台のセッティングがいい。

舞台上には、5名のシュランメルンの座る椅子と譜面台があるのですが、そのすぐ下手側に、四角い絨毯が敷かれ、背の高いシェードランプがある。洒落たテーブルセットが置かれ、その上には、花のアレンジメントと、今回の演奏会のためにメンバーが選んだ、という、シュランメルン・ワイン(休憩中にいただきましたけど、おいしかったぁ)が置かれている。ホイリゲで演奏されることの多い楽しいシュランメルン曲の演奏会ですから、舞台上に、ホイリゲのステージを再現しましょう、という、とても洒落た試み。

曲も演奏も素晴らしく、おしゃれ。中島さんの間のトークは、もう少しこなれてもよかったかな、という感じもするのですが、面白い話題と団員とのなごやかな雰囲気を演出して、とても楽しかった。特に後半からアンコールにかけては、会場全体がほんのりと温かい雰囲気になり、ホイリゲのワインにほろ酔い気分になった時のような、実に甘美な時間を過ごさせてもらいました。全体としては、文句のつけようのない、とても素敵な演奏会でした。

・・・でもね、ごめんなさい、一つだけ、どうしても言わせて。残念だなぁ、と思ったことが一つあったのです。

演奏会の冒頭から前半にかけて、舞台上の「絵」が、非常に居心地が悪い感じがしちゃったんです。これがもう少しなんとかなっていれば、本当に非の打ち所のない演奏会だったのに、と、とても残念。どんな「絵」になったか、というと・・・

歌い手のお二人は、歌のない曲をシュランメルンが演奏している間も、舞台下手にしつらえられたテーブルで、ワインを飲み、演奏を一緒に楽しんでいる、という演出でした。つまり、自分の出番がない時にも、舞台上にずっといなければいけなかった。その時、中島さんが、完全に、「素」になってるのが露骨に見えちゃったんです。

ご自分でおっしゃっているほど、「おしゃべりは上手じゃないんです」とは思いません。とても素敵なトークだったのですが、それでも、得意の歌とは違う、慣れないMCの段取りとかが、気になったんですかねぇ。手元にあるアンチョコ本を一生懸命見ている。一通り確認し終わったら、ただぼおっとしている。

怖いのは、日本人の多くが、「ただぼおっとしている」顔というのが、仏頂面、あるいは不機嫌な顔に見えてしまうことです。傍らのバリトンのエーデルマンさんが、ぼおっとしていても、そんなに不機嫌には見えない。その脇で、不機嫌そうにぼおっとしている中島さんがいると、この二人が、倦怠期の夫婦に見えてきちゃう。倦怠期の夫婦と、心地よいシュランメルン音楽が、同じ舞台に載っている「絵」って、いかがなものなの?

舞台というのは、一枚の絵だ、と思うのです。プロセミアムという額縁の中の絵。動いてはいるかもしれないけれど、そこに存在するものは、常に絵として完成されていなければならない。額縁の中に入る以上は、自分がその絵の構成物の一つなのだ、ということを、きちんと自覚しなければならない。その絵を見つめている人=お客様がいる、ということを、きちんと自覚しなければならない。

そして、その絵がどんな絵であるのか、どんな絵にしたいのか、ということを示すのが、演出家の役割。絵の中を構成する構成物=役者や演奏者は、その演出家の指示や意図を汲み取って、「この絵の中で、私はどう見えているのが美しいのだろうか」ということを常に考えていなければならない。そこに、「素」の自分が入り込む余地はない。つねに、舞台上の「構成物」を演じ続けねばならない。

このことは、今までもこの日記でずっと書き続けていること。ガレリア座の公演では、合唱団の末端にいたるまで、この意識を徹底することが求められています。でも、プロの歌手、一流と言われる歌手でも、こういう意識って意外と徹底されていないのかも。翌15日(日)に、菊池美奈さんがご出演された「カルメン」を見に行った女房も、「美奈さんは別格として、結構、『素』になっちゃって、何の役にもなりきらずに突っ立ったまま歌っているプロの歌手がいるんだよねぇ」とため息をついていました。ううむ。

中島さんと言えば、先日の新国立の「コシ・ファン・トゥッテ」で、本当に素敵なデスピーナを聞かせてくださった方なので、そういう意味でも、もう少し「客に見られている自分」をきちんと演じて欲しかったなぁ、と残念。別に、なんだかんだとこちゃこちゃ動いてほしかった、というわけじゃなくて、ただ、ずっと笑顔でいてほしかった。それだけなんですがねぇ。アンチョコ本読みふけっててもいい。ぼおっとしててもいい。ただ、「常に笑顔でいよう」とだけ思っていてくれれば、それだけで全然違うはず。実際、演奏会の後半には、固かった表情もほぐれ、笑顔の時間が長くなった。それだけで、倦怠期の夫婦じゃなく、なんともお洒落で仲のよいご夫婦が、ホイリゲでにこにことワインを楽しんでいる、という感じになっていた。それが、後半の演奏会全体をいい雰囲気にしていた気がします。この笑顔が前半に出ていたらなぁ。

一つ、嫌な話ですけど、エーデルマンさんのような外国の方が、同じように座っていたのであれば、そんなに「素」を意識しなかったかもしれません。外国の方、というだけで、観客にとっては「非日常的」存在ですから、劇場という「ハレ」の気分を維持できる。でも、同じ日本人が舞台にいて、「素」になっちゃうと、それはもう「ハレ」の気分が「ケ」の世界に戻ってきてしまう。これは怖いです。日本人の歌い手が日本で演奏するときには、常にそういう目で見られていることを自覚して、相当「素」の自分とは違う自分を演じなければならない。

チューニングが半音高い、という、シュランメルンの伴奏にも戸惑われたのかもしれませんけどね。最初のデュエットなど、どうも歌い手の声がハモらないところもあって、何かなぁ、と思っていたのですが、そういう戸惑いもあったようです。この演奏会、他地方でも公演されるそうなので、最後の武蔵野文化会館の演奏会では、もっといい雰囲気になって、きっと、さらにさらに素敵な演奏会になっていると思います。色々文句を言っちゃってすみません。これは絶対お奨めの演奏会です。出演者の皆様、本当に素敵な時間をありがとうございました。でも、エーデルマンさん、舞台上であんなにカッポンカッポン、ワイン飲み干しちゃって大丈夫だったのかな?