何かと何かが出会う所に新しい何かが生まれるんだよなぁ。

久しぶりの投稿、昨日開催した自分の制作ユニット、Galleria Actors Guild(GAG)の公演を終えての感想。今回の公演では、テーマにした「Long Absence」(長い不在)という言葉が、色んな出会いから生まれて、そしてまた、色んな出会いを生み出してくれた気がしています。今回はそんな「出会い」のことをつらつらと。

原宿にある、お洒落でとても響きのいいホール、hall60(ソワサント)での公演でした。

 

最近のGAG公演では、15年続けている「南の島のティオ」朗読のパートと、歌曲のパート、という2つのパートを組み合わせてお送りしています。南洋の小さな島を舞台にしたこの池澤夏樹の短編集の朗読と、どんな歌曲を組み合わせるか、この「組み合わせ」というのも一つの「出会い」なんですよね。

今回の朗読で取り上げた「ホセさんの尋ね人」は、ファンタジックなお話が多い「南の島のティオ」の中でも、魔法や不思議が出てこない真っすぐな人生ドラマ。かつて愛した人の帰りをひたすら待ち続ける切ないこの物語に対して、女房が歌う英米歌曲のパートは、以下のようなセットリストでした。

 

「The desire for Hermitage (世捨て人の願い)」Samuel Barber

「Little Elegy (小さな哀歌)」Ned Rorem

「Early in the morning (ある朝 早く)」Ned Rorem

「Love in the Dictionary (辞書における愛)」Celius Dougherty

「Sallie Chisum remembers Billy The Kid

(サリー・チザムによるビリー・ザ・キッド追想曲)」André Previn

「Love (愛)」Ned Rorem

 

私も初めて聞く曲ばかりだったのだけど、これが「ホセさんの尋ね人」という物語にとてもしっくりくる曲ばかり。静謐な孤独、もう失われてしまった輝く思い出、「愛」の深さ、温かさを歌う曲のどれもが、前半の朗読物語の余韻とうまくまじりあって、ご来場くださったお客様の多くの方々が、「前半の物語の雰囲気と歌曲がしっくりきた」と言って下さいました。

でも、今回の選曲のメインになった「サリー・チザム」は、今回の伴奏ピアニスト田中知子さんが、「大津はこれを歌うとよいと思う」と勧めてくださったのが始め。西部劇のアンチ・ヒーローとして名高いビリー・ザ・キッドとの交流を懐かしく思い出すサリー・チザムの回想。女房も全然知らない曲だったそうなのですが、名ソプラノ歌手バーバラ・ボニーのためにアンドレプレヴィンが作曲したこの曲を聞いて、「これは『ホセさんの尋ね人』と組み合わせるといい」とピンと来たんですって。田中知子さんがこの曲に出会って、田中さんが女房に出会って、そして女房に勧めてくれなかったら、今回この企画そのものが成立してないんですよね。

何か新しいものって、まったくの無から生まれることってほとんどなくて、そこまで積み重ねてきた何かと何かが「出会う」所に生まれるんじゃないかなぁっていつも思うんです。そういう「出会い」を設定するのが優秀なプロデューサーだったりするんだろうなって思ったりする。「この作曲家とこの歌手を組み合わせるのか」とか、このコンセプトの融合がすごい化学反応起こしてるよなぁ、とか、色んなパフォーマンスを見るときに感じることって多いですよね。「出会い」が新しいものを生み出し、世界を動かしていく大きな原動力になっていく。

今回、「ホセさんの尋ね人」と「サリー・チザム」に共通するテーマとして、「Long Absence」なんていいよね、と女房と話し合って決めました。今ここにいない人を待つ思いも、もう二度と会えない人を懐かしむ思いも、その前提になっているのは、「会えない」という不在。

でも、今回の公演では、昔私が所属していた合唱団の団員さん達との十数年ぶりの再会といった、嬉しい出会いが沢山ありました。「Long Absence」というテーマの公演の客席で、長い不在を埋めるように交わされている笑顔の数々を眺めていると、自分達が提供しているエンターテイメントそのものが、人々との「出会い」を生み出す大切な「場」なんだなぁ、と改めて思ったりもしました。オンライン配信ライブではなかなか生み出すことができない「出会い」の場。そんな機会を生み出す時間や空間を、これからも細々と作っていけたら、と思います。

考察ごっこ2題~フェイドアウトとお散歩ペットボトル~

今日は本当にどうでもよいお話を2題。

日常生活の色んなことがふと「引っかかる」ことがあって、これってなんでそうなってるのかな、なんて考えて、ちょっとそれっぽい考察が浮かぶと嬉しくなってしまったりします。その考察が的を射ているかどうかは別としてね。実際そういう、考察、というか、「仮説」を実証するには色んなデータ分析が必要なんだろうけど、そういう苦労はしたくない怠け者なので、ほんとに言いっぱなしですし、既に我が家の批評家(女房のことですが)に論破されていたりもしますが、まぁ単なるお遊び、「考察ごっこ」ということで。今日はそんな「考察」をしてみたお話を2つ。

一つ目の考察は、「フェイドアウト」。

最近、あんまり「フェイドアウト」する曲を聞かない気がするんですけど、気のせいですかね?どこかの音楽番組で、最近は「イントロ」のない曲が多くて、それはとにかく余裕のない時代だから、すぐに耳に残るサビに入らないといけないんだ、なんていう解説がされていたんですけど、アウトロでだんだん音が消えていく「フェイドアウト」の曲も、最近減ってる気がする。米津玄師さんの「Lemon」だって、Yoasobiさんの「夜に駆ける」だって、しっかりアウトロで終止して、終わりが明確にある。でも、私が高校生や大学生くらいの頃に流行ってた曲って、フェイドアウトがやたら多かった気がするんだよね。ずっと後奏が続いて段々音が小さくなっていく曲。最近あんまり聞かないなぁって。

色んな要素があると思うんだけど、一つには、音楽業界自体がCDやレコードといった記録媒体の販売から、リアルの音楽体験を売る「ライブ」という形態にシフトしていった結果なのかもしれないなって思ったり。ライブ演奏でフェイドアウトってできないですからねぇ。そういう「モノ」より「コト」を販売しよう、というトレンドが進んでいた所にコロナがやってきて出鼻をくじかれた感じになってしまったけど、でも今でもやっぱりフェイドアウトっていうのはちょっと古臭い表現になってしまったのかもな、と。

もう一つの考察は、かなりこじつけ感が強いんだけど、まぁ「考察遊び」なのでお付き合いください。フェイドアウトが一般的だった私の高校時代・大学時代というのは、なんのかんの言いながら現状がずるずるとこれからも続いていくんだろうな、という楽観が世の中の根底にあった気がするんですよね。日本沈没だのノストラダムスの大予言だの、終末論が語られることは多かったけど、逆に言えばそれをフィクションの世界でエンターテイメントとして楽しむ余裕があるくらいに、「まぁそんなこと言ったって世界は簡単に終わらんわな」という楽観。

でも、阪神淡路大震災や、サリン事件、911や311を経て、今の我々は、当たり前に繰り返されていく日常、というものがどれだけ儚いものか、ということを実感してしまった。同じメロディーを繰り返しながらずっと先の未来まで続いていく「フェイドアウト」という表現自体が、現在の自分達の実感から少し乖離してきてしまったのかもしれない。もしこの考察が少しでも正しいとしたらちょっと悲しい話だけど。

 

二つ目の考察は、「お散歩ペットボトル」です。

最近街で犬の散歩をしている方が、ペットボトルの水をワンちゃんのオシッコのあとに振りかけているのをよく目にしますよね。でも、ちょっと考えてみた。「あれって意味あるんかな?」

大量の水をオシッコの後にかけて、水流ごと排水溝に流してしまうのであれば意味がある気がするんですが、そんなに大量の水を持ち歩いている人はいなくて、せいぜいオシッコより少し多い水をかけているくらいです。結果的に、オシッコは水で薄められているだけで、道路の上に広く広がって流れていくわけではない。むしろ水分を沢山含んで、乾燥する時間が長くなってるだけじゃない?オシッコが広がる分、ふんづけちゃうリスクも増えちゃうし。

で、ここでまたしても「考察遊び」。あんまり意味ないんじゃないか、と思われるこのペットボトルの水が一般化しているのには、日本人が根強く持っている「水」に対する「浄化信仰」があるんじゃないかな、と。

日本神話に現れる禊の儀式もそうですし、ひょっとしたらキリスト教の「洗礼」なんかもそうかもしれないけど、水には色んな「穢れ」を浄める、というイメージ、というか、一種の信仰がある気がする。トイレに入ったら手を洗いなさい、というのも一種の「ケガレ」の浄化の儀式的な側面がある気がするんだけど、それに近い感覚で、オシッコに水をかけて「浄めている」のじゃないかなぁ、と。

そういう話をうちの女房にしたらですね、「それも面白いけど、実際に水にはある程度の消毒機能があるんだよ」と言われました。「お寿司屋さんがまな板をずっと水で洗っていることで雑菌の繁殖を抑えている、なんてこともあるから。」

そうなんだ、とも思ったんですが、「ケガレ」の浄化=浄め、のために水を使っている、っていうのも自分的には魅力的な考察だったりします。日常の中で時々、「あれ?」って引っかかるものの背景をあれこれ考えてみるこの「考察ごっこ」、また何かネタがあったら、このブログで紹介できればと思います。

人柄がよくてパフォーマンスがいいってのは無敵だよねぇ。

6月8日は我々夫婦の結婚記念日なんですが、なんと今年は25年目。いわゆる銀婚式でございました。結婚記念日の前後の週末には、結婚式を挙げた都ホテルに泊まる、というのが我が家の年中行事だったんですが、2020年以降はコロナのせいで宿泊はできず。今年は銀婚式だし、コロナもかなり落ち着いてきた、ということもあり、久しぶりに家族3人で、都ホテル一泊の年中行事を再開することができました。銀座の和光でお買い物をしたり、都ホテルのレストランでお食事をして、のんびりすごす都内の贅沢。話題の都民割は使わなかったけど、確かに東京都内でも素敵な場所は一杯あるよね。

結婚式を挙げた都ホテルの「杜のチャペル」。ちょうど挙式の最中でした。結婚披露宴も戻ってきたんだなぁ。

ランチに伺ったカフェ・カリフォルニアからは、アニバーサリープレートのプレゼントいただきました。

さて、今回のブログのメインの話題は、結婚記念日前後のハレのイベント、ということで、今日6月12日に家族3人で行った、マルティン・ガルシア・ガルシアさんのリサイタルです。

去年の10月に開催されたショパン・コンクールは、反田恭平さんと小林愛実さんが入賞されて日本でも随分話題になりましたけど、我が家で最も人気が出たのはガルシア・ガルシアさんでした。鼻歌を歌いながら演奏する姿や、多少のミスタッチより曲の歌心を優先するスタイルとか、とにかく楽しいピアニスト。でも、輝かしい音(輝きすぎる音)を持つFAZIOLIというピアノを、表情豊かに歌わせる技術もしっかり兼ね備えている感じがとても気に入って、結婚記念日のイベントにちょうどいいよね、と、都ホテルから川崎ミューザへ向かう。

会場の川崎ミューザ、この写真は開演前でしたが、開演時にはほぼ満席。その満席のお客様に向かって、ガルシア・ガルシアさんのサービス精神が遺憾なく発揮されたコンサートでした。第一部のピアノ・ソロから、輝かしいピアノの音が会場全体を満たす感じが本当に心地よい。間の取り方、幅広いダイナミクスピアニッシモからフォルテまで決して失われないキラキラした音のツヤ、例によって鼻歌ももちろん聞こえてくるのだけど、それが決して曲を邪魔していない。この人は自由奔放な弾き手のように言われるけれど、ものすごく技術が高くて、さらに楽譜の中から掬い取ってくるものも凄く深いなぁって感じました。

そして圧巻だったのはアンコール。コンチェルトも終わって、全国ツアーでかなり疲れもたまってるのじゃないか、と思うのに、会場の拍手に応じて次々と演奏してくれたアンコール曲はなんと7曲。30分以上に及ぶ、「第三部」といっていい盛り上がりを見せました。

プログラムに掲載されていた彼の言葉にもあったけど、日本のクラシック音楽の聴衆って世界的にも最高レベルなんじゃないかと思うんだよね。欧州ではもうあまり顧みられなくなりつつあるクラシック音楽の世界だけど、日本では子供のお稽古事にピアノを習わせる家庭が本当に多いし、クラシック音楽の愛好家もまだまだ多い。想像だけど、ガルシア・ガルシアさんが欧州の会場で浴びる喝采よりも、ずっとずっと大きくて暖かい拍手で、彼自身本当に嬉しかったんじゃないかなぁって思います。

でも、そういう聴衆の拍手に一生懸命こたえようとしてくれる誠意が、また聴衆を彼のファンにしてしまうんだよね。音楽や演劇、全てのステージ・パフォーマンスに共通することだけど、人柄っていうのはパフォーマンスに出るんだよなぁ。ガルシア・ガルシアさんの演奏は、楽譜から掬い上げてくる解釈や表現が、過去の弾き手と少し違う感じがあって、それが彼の「奔放さ」と言われることもあるけれど、何かしら「奇をてらおう」としている感じはしない。人と違うことをしよう、と思っているのではなくて、単純に、楽譜から感じたことに忠実に演奏している誠意が根底にあって、そしてそこにはどこかしら底抜けの楽天主義というか、聞く人の心を温かくする明るいポジティブな視線がある気がする。そういう人柄の良さがパフォーマンスににじみ出てくるから、余計に幸せな気持ちになってくるんだよなぁ。

毎週聞いている遠坂めぐさんのYouTubeライブで、遠坂さんが、慶応大学の藤沢キャンパスで共に学んだ、という、あの鈴木愛理さんのことを、「本当に普段からあのまんまの、明るくて素敵な方なんです」とおっしゃっていて、鈴木愛理さんがこれだけ愛されてるのって、やっぱり人柄なんだなぁって思ったことがあります。川崎ミューザに今日集った聴衆は全員、ガルシア・ガルシアさんのファンになっちゃっただろうなぁ。もちろん、ただ人柄がいい、というだけじゃなくて、努力や研究に支えられた高いパフォーマンスがあってのことなんだけど、人柄がよくてパフォーマンスがいいってのは本当に無敵だよねぇ。人柄がいま一つでパフォーマンスがいいっていう人もいると思うけど、人柄がよくないとやっぱり固定ファンはつかないと思うんだよなぁ。人柄がよくてパフォーマンスがいま一つの人ってのも、結構ファンがついたりするからねぇ。ステージパフォーマンスをやっている以上、人柄を磨くってのはすごく大事なことなんだよねぇ。

推しが世間に見つかるのって心配なもんだねぇ。

最近余裕がなくってこのブログも放置状態だったんですが、たまには更新しないと忘れられてしまうかしら、ということもあり、ちょっと最近思ってることを。とはいえ、かなりヲタ系に近い投稿なので、お前の推しの話はいいよ、と言われそうな気も。まぁ推しをお持ちの方だけじゃなくて、最近ネットやSNSでの投稿にはまっている方にも共感いただけそうなネタなので、お時間のある方は是非お付き合いくださいませ。

 

以前にもこのブログで紹介したんですが、推しのさくら学院卒業生の山出愛子さんに提供された楽曲が本当に素敵で、そこからすっかり推しになってしまった、シンガーソングライターの遠坂めぐさん。毎週土曜日夜に欠かさず配信されているYouTubeライブの視聴だけじゃなくて、3月に開催されたライブにも参戦。小柄で可憐な外見とパワフルなピアノのギャップ、ソウルフルで伸びやかなボーカル。日常のワンシーンを、新鮮な、でもどこか優しい視点で切り取るビビッドな歌詞に笑ったり泣かされたり、ヤマハ音楽教室で鍛えたハッとするようなコード進行の鮮やかさとか、はずれのない名曲の数々と、知的で飽きのこないMC含めて、この人は本当に売れて欲しいなぁ、と思って追いかけていました。森七菜さんへの楽曲提供とか、メジャー界からもピックアップされ始めて、そろそろブレイク間近かも、と思っていたんだけど、この3月頃までは、土曜日の配信ライブの視聴者は100名に届くことも稀。配信中にコメントを送ってくる常連さんたちと、それをこまめに拾う遠坂さんとのキャッチボールのライブ感も楽しくて、地下アイドルとまではいかないけど、小さなコミュニティの中で応援しているこれからの才能、という感じが強かった。以下に貼るのは、そのコミュニティの中でも人気の高いオリジナル楽曲「うすしお」のMV。コロナ禍で会いたくても会えない人々の思いを、ポテトチップスというジャンクフードに重ねる地に足着いた視点が、胸の深い所に沁みる名曲です。

youtu.be

 

状況が激変したのは、3月のライブ前後に遠坂さんが投稿したTikTokの動画、「キレてます」シリーズが5000万回を超える人気動画になってしまった時から。慶応出身という才女らしいちょっとジャーナリスティックな視点も入りつつ、日常の中の「あるある」を耳に残るメロディで呟くこのショート動画がバズったおかげで、一気に知名度が上がってしまった遠坂さん。当然のようにYouTubeの登録者数も激増して、この週末にはついに7万人を突破。3月頃には確か4000人、とか言ってたのに、YouTubeTikTokでも注目の人気急上昇クリエイターに躍り出てしまいました。下に貼り付けたのは最近見てお気に入りになった「キレてます」シリーズの「おやつ集」。

 

youtu.be

 

こうなると、毎週土曜日のYouTube配信ライブの視聴者も一気に増加してしまって、500人近い人たちが見るようになってしまう。そうすると、そうなんです、コメント欄が荒れてくるんですよ。一見さんや、「キレてます」動画みたいなネタ配信を期待する視聴者さんのコメントがやたら増えてくる。遠坂さんの配信ライブは、無料配信でありながら、一時間の中に必ず胸にぐっとくるオリジナル曲の演奏や、どんなカバー曲もこなす一級のパフォーマンスにうなる瞬間があるのが楽しみで、「キレてます」みたいな瞬間芸だけじゃない遠坂さんの実力と魅力が堪能できる時間なのに、ちょっと違うかな、と思うコメントが増える。中には明らかに荒らし目的のコメントも乱打されたりして、以前のように、常連さんばかりが訪れる平和なコミュニティの感じがかなり失われてしまいました。

 

なんかそれを見てるとね、ヲタ界隈の人達が、自分の推しが人気が出始めると、「やばい、見つかってしまう」と言っている意味が分かる気がしたんだよなぁ。露出が増える、ということはビジネス上の利益を生むだけじゃなくて、人目に自分の姿をさらす機会が増えることで間違いなくパフォーマンスの水準を上げる。実際、遠坂さんの歌唱もピアノも、この春ごろからのクオリティの上昇が半端なくて、ショート動画でも、しっかり毎日自分のパフォーマンスを世の中に発表し続けていることって大事なんだなぁって思います。

 

それでもねぇ、特に遠坂さんは、私の娘に年齢も近いこともあって、いろいろ心配になっちゃうんですよね。荒れてるコメント欄に毅然と冷静に対応している遠坂さんとか見てると、自分の娘にその悪意が向けられているような気分にもなって、遠坂さん、負けるなって思いながらも、なんか、無理しないで、なんて思ったりもする。ネットって本当に、公衆便所の落書きのような意味のない悪意や受け手の気持ちを無視して垂れ流される薄汚い言葉に充ちていて、そういう匿名の悪意みたいなものから身を守るのって本当に大変なんだなぁって、「見つかってしまった」推しの状況の激変を見ながら、ネットの世界で商業的に成功することの大変さ、というのを改めて感じています。もちろん、プロの世界に身を投じて頑張っている遠坂さんは、私が想像しているより全然肝が据わっているんだろうし、周囲にいい助言者も一杯いて、しっかりこれからの対処も考えているんだろうけど、それでも、悪意も善意も一緒くたに漂い流れているネットの海に浮かぶ小さな舟の上で、胸に残る美しい歌声を響かせている遠坂めぐという才能が、匿名の言葉のトゲに傷ついたりすることがないように、これからもっともっと高い所へと駆け上がっていくように、ちょっと保護者っぽい目線で心配しながら見守りたいって思います。さくら学院の子たちを見守っている視点とも近いのだけど、パトロネージュっていうのはこういう心配ごとがつきものなんだろうなぁ。

「その着せ替え人形は恋をする」~エロスの復権と理想の男性像、そして支える本気の技術~

ジジイがなにエロアニメの感想真面目に書いてんだよ、と言う人は絶対いるだろうな、と思いながら、でも面白かったものは仕方ない、ということで、久しぶりにアニメの感想です。先日最終回を迎えた、「その着せ替え人形(ピスクドール)は恋をする」。本当に偶然に出会って偶然に見始めたんですけど、好きなものを好きな人が好きなように作りこんだ妥協のなさと、原作に仕込まれた本物の凄みが底支えする洗練されたエロスと絶妙なキャラ設定に結構入れ込んで、全話しっかり見てしまった。今期の新作アニメの中でもかなり人気作になったみたいで、第二期も企画されているようですけど、今回はこのアニメの中で特に印象に残ったポイントをちょっと真面目に書いてみたいと思います。ネタバレはあんまりないと思いますので、未見の方もご安心ください。

コスプレ、というサブカルチャーの極北ともいえる所からヲタク文化に切り込んでいる作品なので、「エロス」というのが大きな作品のテーマになりますし、当然のように女性の登場人物の露出度は非常に高めです。また、原作者がアニメ化を諦めた、と言われる過激な表現(エロゲーやラブホテルの描写など)も原作以上にしっかり出てきます。でもねぇ、正直言えば、昭和の青春漫画や青春映画なんて、もっと露骨だったよねーって思うんですよね。もっと露骨だったし、もっとドロドロしていた。中山美穂がブレイクした「毎度おさわがせします」はズバリ性教育がテーマのドラマだったけど、あれでも自分の世代なんかは随分健康的なエロスだなぁって思ったし、柳沢きみおのドロドロの青春漫画とか、純粋にエロだけをテーマにしたロリコン漫画の隆盛期なんか、今では考えられないような露骨な性表現が漫画雑誌に溢れていた。女性のヌードを売りにしたテレビの深夜番組とか、今ではすっかり影を潜めてしまったよね。

放送倫理コードの厳格化とか、たぶん色んな大人の事情があるんだとは思うけど、でもやっぱり、「エロス」っていうのは人間の獣の本性と理性がせめぎ合う接点にある、ある意味人間存在の根幹にあるものであって、ワーグナーが「タンホイザー」で描いた昔から、文芸作品の一つの大きなテーマなんだよね。この「エロス」に目を背けてしまったら、人の獣の本能を描く手段は、もう「バイオレンス」しか残ってない、というのが、現在の色んな映像世界における派手なアクションシーンやサイコパスの量産につながっている気がする。それって本当に健全な姿なんだろうか。倫理コードがエロスを抑圧してしまった結果が、色んな所で人と人の関係を荒ませているような気もしなくもないんだよなぁ。

そういう意味では、「着せ恋」が真正面から「エロス」を描いて人気を博した、というのは、「エロス」の復権、みたいな感覚があってなんとなく嬉しい。しかも、「着せ恋」で描かれる「エロス」って、実に洗練されていて清潔感があるんだよねぇ。令和のエロス、というか。高い作画技術で、質感や触感はとてもリアルに表現されているんだけど、とてもキレイで、昭和のエロスの泥臭さや生々しさは皆無。エロスに向き合う若者たちの思いもとてもピュアで、自分の中の獣の欲望に抗いながら、純粋な気持ちを貫こうとする姿がとてもすっきりと嫌味なく描かれている。こういう形で表現すれば、今の時代でも「エロス」をここまでしっかり描けるのか、という感動もありました。今期のアニメアンケートで、「進撃の巨人」よりも「着せ恋」の方が人気が高い、というアンケート結果もあった、という話を聞いて、「エロス」が「バイオレンス」に勝った、ということなのかもしれないなって思ったりして。

もう一つ、「着せ恋」の大きな特徴の一つが、女性を輝かせる凄腕の職人、という新しいヒーロー、五条新菜くんの造形だと思います。セーラームーンに始まった女性ヒーローものにおける男性相手役の造形は、タキシード仮面に代表されるように、あくまでカッコよく女性をエスコートするリード役だったし、タキシード仮面はセーラームーンより明らかに戦闘力が低いにも関わらず、「エスコート役」という立ち位置は変わらなかった気がする。ドジなヒロインを優しく見守り、導く、という男性上位の関係性。

でも、「着せ恋」の五条くんと喜多川海夢さんの関係というのは、明らかに喜多川さんがエスコート役なんだよね。物語の推進力は喜多川さんの方にあって、喜多川さんの望みをいかに叶えるか、いかにヒロインを輝かせるか、が物語を前に進めていくエンジンになる。その喜多川さんの願いを、卓越した技術と偏見のない受容力、探求心、鑑賞眼、そして何より、人の心を見通す優しい視線を持った五条君が次々と叶えてくれる。

そういう意味ではこれは、シンデレラをお姫様にしてくれた魔法使いそのものが王子様だった、というシンデレラストーリの変形ではあるんだけど、各方面の琴線に触れる絶妙な設定なんだろうなって思う。夢を叶えてもらう側の女子からすれば、まさに理想の男子だし、自分の外見や社会力に自信のないヲタク男子からすれば、引きこもって磨いた技術をカワイイ女子に認めてもらうシンデレラボーイストーリに見えるだろうし。

その設定をリアルに見せているのが、原作でこれでもかと描きこまれるひな人形の技術やコスプレ技術などのディテール。原作者は相当取材をしたんだろうなぁ、と思うけど、その原作の仕込まれた本物の凄みをしっかり再現しつつ、作り手自身が「そうです、私もヲタクです!」と宣言しているようなアニメのディテールの作りこみにも感心しました。最終回の花火のシーンを頂点とした作画や映像の美しさはもちろんのこと、劇中アニメとして登場した「フラワープリンセス烈!!」のヲタク心に妥協のない作りこみ。自分的に実は一番興奮したのは、最終回のホラー映画のシーンで、「着信アリ」のパロディかな、と思っていたら、まさかのレジェンドB級ホラー映画「悪魔のいけにえ」のラストシーンをアニメで再現してきたんだよなぁ。今の若い人に見せたって元ネタが分からんだろうがよ。なんというマニア度の高さ。

見始めたのは本当に偶然で、鬼滅の刃を見た後に放送していたのを何げなく、くらいの軽い気持ちだったのですけど、結局こんな長文の感想文を書くまでお気に入りの作品になっちゃいました。魔法が使える現代のタキシード仮面、五条くんが、喜多川さんをこれからどんな風に輝かせるのか、二人の恋の行方とともに、第二期を楽しみにしたいと思います。

「うりこひめの夜」~襲うものと襲われるものの依存関係~

3月8日、青島広志先生の主催するブルーアイランド版オペラで、林光の「あまんじゃくとうりこひめ」、青島広志先生の新作オペラ「うりこひめの夜」のカップリングステージを見に行ってきました。今日はその感想を。

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公演ちらし。

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会場のあうるすぽっとにはフクロウさんが至る所にいました。

 

あうるすぽっとって初めて来たのですけど、池袋駅前の再開発プランの中で、「演劇の街池袋」の象徴として作られた劇場のようですね。東池袋駅の目の前。エレベーターホールの前の扉がちょっとお役所の公共施設っぽいのが若干残念だけど、その扉を通って中に入ってしまえばとてもいい雰囲気の劇場。

お目当てはもちろん、自分が以前からどっぷりハマっている漫画家、諸星大二郎先生の「瓜子姫とアマンジャク」を原作とした青島先生の新作オペラ「うりこひめの夜」。基本的に自虐キャラで自分に向けられる称賛を素直に受け入れてくださらない青島先生ですけど、この人はやっぱり天才なんだなぁ、と改めて思いました。原作のセリフをほぼ忠実になぞりながら、自然な日本語の流れとキャラクターのライトモチーフが無理なく調和しつつ進行していく濃密なアンサンブル。その中に時折ハッとするような抒情性が立ち現れる瞬間の清々しい感動。そういう160キロの剛速球も投げてしまう天才なのに、自作のオペラ作品の中にまで諧謔やパロディを入り混ぜて笑い飛ばしてしまう所がなんとも青島先生らしい。この作品はそういう自虐的なところを捨象して、すっきりとしたオペラとして上演したら本当に素晴らしい作品になるんじゃないかなぁって思った。ラスト、飛翔感と浮揚感あふれる伴奏に合わせて、自らの破滅を覚悟しながらも、自分の思いを貫こうと空を駆けていく瓜子姫の姿が本当に泣ける。

とはいえ、自分は音楽については素人なので、あまりオペラ作品としての「うりこひめの夜」には立ち入らず、同時に上演された林光先生の「あまんじゃくとうりこひめ」にも共通していた、「瓜子姫」というおとぎ話におけるアマンジャクと瓜子姫の関係性について、思ったことを少し書きたいと思います。

「瓜子姫」というおとぎ話は子供向けにアレンジされることが多いけど、もともとはかなり凄惨なお話で、瓜子姫はアマンジャクに殺されるのが基本形。それも木から突き落とすとか岩の上で切り刻むとか、挙句に、殺した姫から剥ぎ取った生皮をかぶってアマンジャクが姫になりすます、切り刻んだ瓜子姫の肉を、おじいさんとおばあさんに食わせる、など、もうほとんどスプラッタホラーの筋立てになってるケースもあるそうです。

WiKiによれば、そういう凄惨なお話になっているのは東日本が多くて、西日本では姫は生き延びるパターンが多いそうなのだけど、いずれにせよアマンジャクは姫を襲う悪として描かれていて、最後には罰せられる(大抵は殺される)ことが多い。でも、今回のオペラ作品2つでは、この「うりこひめ」の物語の道具立て(姫になりすましたアマンジャクが機を織る、といったモチーフなど)は活かしながらも、アマンジャクは「悪」ではなく、むしろ邪気のないいたずらっ子で、物語を動かしていくトリックスターであったり、あるいは瓜子姫の孤独な心情の唯一の理解者として立ち現れてくる。

こういう、瓜子姫とアマンジャクの間の一種の「相互依存」ともいえる関係性は、諸星先生が「妖怪ハンター」で瓜子姫伝説を取り上げた「幻の木」という短編でもっと濃厚なテーマとなっています。諸星先生は、「瓜子姫」を、全世界に伝わる「世界樹」伝説に連なる神話的な物語にまでスケールを拡大。「世界樹」から得られる無限のエネルギーを元に、世界樹への人身御供として死と再生を繰り返す「瓜子姫」という永遠の存在と、その存在の再生を促す破壊者としての「アマノジャク」という、対立と依存の関係をもつ二つの切り離せない存在としてこの二人を描き出します。善悪を超えたこの二つの存在は、世界樹を中心に輪廻の輪を回すプラスとマイナスの力のような相互依存関係にある。

そこまで話を広げないとしても、昔話における襲い襲われる立場のプレイヤー同士が、一種相互依存のような関係で結ばれてしまう、というのは、他のおとぎ話にも結構ある気がするんですよね。瓜子姫以外にも、「かちかち山」のウサギとタヌキ、さるかに合戦のサルとカニ、あるいは、「花咲か爺さん」「おむすびころりん」「こぶとりじいさん」「舌切り雀」などの昔話に現れる心優しい老人といじわるな老人の対立関係なんかも、単なる善悪の関係、というより、片方が壊し、片方が再生させる、何かしら相互依存関係のような密な関係性を感じることがある。

諸星先生は、「さるかに合戦」におけるサルとカニの対立関係や、「花咲か爺さん」の対立関係も、「柿の木」や「花を咲かせる木」という形で立ち現れる「世界樹」を巡る善悪の抗争、として捉える文章も書いてます。この発想も魅力的なのだけど、いずれにせよ、日本の昔話に出てくる対立関係というのは、単純な善悪の対立、というよりもっと深い、世界を動かしている破壊と再生のダイナミズムのような哲学を内にはらんでいるような気がしてならない。

対立関係を単純な善悪の二元論に落とし込んでいかないのは、キリスト教のような一神教でない日本の精神風土が背景にある、という分析も可能かもしれないですね。アマノジャク含めた「鬼」という存在自体、悪魔とは違って絶対的な悪ではないから、そこに同情や愛情や依存が生まれる余地があって、善悪を超えた対立関係が物語を動かしていく構造が生まれるのかもしれない。そういえば、日本神話のイザナミイザナギ伝説自体、鬼と化した女性と現世の男性が、夫婦でありながら生と死を司る神として相互に依存する関係性を持ってるし、そこにそもそも善悪という価値観自体存在してないんだよな。

じゃあ、西洋の昔話にはそういう「襲い襲われるもの」同士が善悪を超えた依存関係を持っているケースがないか、というと、ありましたよ。「赤ずきんちゃん」。この物語の中の赤ずきんちゃんとオオカミの関係っていうのは、単なる襲い襲われる関係じゃない感じがするよね。でもそれって、この物語が持っている濃厚なエロスの要素が生み出すものだし、そういう観点でこの物語をダークファンタジーに作り直した映画とかもあった気がする。確かに、「瓜子姫とあまんじゃく」というのもエロスの要素を見ることはできるし、「カチカチ山」のたぬきとうさぎの物語を男女の駆け引きとして捉えたのはあの太宰治でした。人間世界を構成する男と女、という対立関係こそ、破壊と再生という相互依存の関係そのものだったりしますからね。

林光の「あまんじゃくとうりこひめ」は、子供にも愛される作品となるように、あえてアマノジャクを愛嬌のあるキャラクターとして描いている側面もあるかな、とは思いますけど、こうやって別の作家の手でアレンジされた同じおとぎ話が、原作の昔話の襲い襲われる関係を、むしろ双方の相互依存の関係に読み替えてしまう同じアレンジを加えている所がなんだか面白かった。そう思うと逆に、東日本で伝えられたアマノジャクがここまで残虐な「悪党」として造形された理由の方が、むしろ興味惹かれますよね。そこまでヒドイ話にしなくてもいいだろう、と思っちゃうほど、瓜子姫が残虐に殺されねばならなかった所に、東日本における何か民俗学的な精神世界が影響しているのかもしれないなぁ。

遠坂めぐさんのライブ〜ホントに贅沢な時間でしたよ〜

3月12日に学芸大学のAPIA40で開催された遠坂めぐさんのライブに参戦してきました。今日はその感想を。簡単に言っちゃえば、こんなお値段のチケットでこんな贅沢な時間過ごしちゃっていいのか、と思ってしまって、自分が少し関わっているクラシック音楽の演奏会と引き比べてなんか反省しちゃった、というのが結論だったりするんですけど、もう少し細かく書いていきましょうか。

遠坂めぐさんというシンガーソングライターさんのことはこのブログにも何度か書いてるんだけど、さくら学院の卒業生の山出愛子さんに提供された楽曲がどれも素敵な曲ばっかりで、YouTubeのご本人の歌聴いてすっかりハマってしまったんです。コロナで2年も延期されてしまった初レコ発ライブ、ということで、これは行かねば、とチケット購入。オシャレな学芸大学の住宅街の中にある、これまた実にオシャレなライブハウスに足を運びました。還暦近いジジイにとっては圧倒的なアウェイ感。

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入り口からして洒落てるなぁ。

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中はもっと洒落てるなぁ。

とは言いつつ、周りを見回せば同世代の観客の方も結構多くて、会場全体の和やかな雰囲気や手作り感溢れるグッズなどに気持ちも和んで、リラックスした感じで開演を迎えました。ギターの太田貴之さん、パーカッションの渡辺光彦さんが入場した後、バター色の明るい衣装の遠坂さんが入場。最前列に座った自分の目の前を通り過ぎていく姿の第一印象はとにかく、細くてちっこい。YouTubeの配信ライブでもスリムな人だなあとは思ってたけど、心配になるくらい華奢な印象。

それがねぇ、グランドピアノの前に座って鍵盤叩いた瞬間にライブハウスの空気の色全部変えちゃうんだ。あの細い身体で細い指(後でギターの弾き語り披露してくれた時に改めて見直したけどホントに細い指なんだよ)で、まぁグランドピアノがトイピアノに見えるくらいにバンバン音が出る。一曲目の「うすしお」は緊張感もあった感じだけど、2曲目の「メトロ」辺りからすっかり声も安定してきて、暖かみがあって豊かな低音域から、柔らかなファルセットまで、時にゴスペル風の多彩な声のバリエーション自在に操りながら心地よく聴かせてくれる。そして都会の日常を一生懸命生きてる、ちょっと不器用な愛おしい楽曲達が、ギターとパーカッションとピアノっていうアコースティックなサウンドの温もりにしっくりくるんだなぁ。

構成がアコースティックだから余計にそう思っちゃったのかもだけど、自分が主に関わってるクラシックの演奏会の満足度とちょっと引き比べちゃったんですよね。もちろん、一流の音楽家や素晴らしいオーケストラの演奏会の満足感は素晴らしいけど、時には、結構高いチケット代や立派なホールを揃えて、会場に足を運んでみれば、なんじゃこりゃって思うようなパフォーマンスをお客様に見せて平然としている自称「プロ」のクラシック演奏家も結構いたりする。そりゃポップスの世界にだって、なんじゃこりゃって思うようなコンサートはあるのかもしれないけど、遠坂さんのライブの満足度はハンパなかった。サポートプレーヤーの太田さんや渡辺さんの確かな技術、ライブ会場の照明プランの美しさ含めて、このクオリティで、このお値段で、ライブハウスの席数は50席ですよ。この手作り感と距離感は大事な気もするけど、もっと大きな場所で沢山のお客様に聞いてほしいプレーヤーさんだと思うんだよねぇ。

亡くなったお父様に捧げた「月にありがとう」では、ピアノの一音一音に込められた想いの熱さに涙溢れました。笑って泣いて、手拍子で一緒に盛り上がって、心に一杯栄養もらった上に、入り口でCDにサインもらって直接ご挨拶までしちゃったけど、あんな華奢なちっこい身体で、こんなに人に与えることばっかりやってて、娘が同世代のジジイは心配でございますよ。ホントに、しっかり食べて、しっかり寝て、もうちょっと太って体力つけて、無理しないで、心と身体に気をつけて、優しい眼差しで見つけた日常の何気ない瞬間の輝きを、キラキラした音楽にして天に届け続けて欲しいなって思います。遠坂さん、太田さん、渡辺さん、APIA40のスタッフさん、あの空間と時間を作り上げてくれた全ての人たちに、ありがとうございました。やっぱりライブはいいなぁ。