ジジイ達は若い人の邪魔すんな

ちょっと品のないタイトル書いちゃいましたけど、先日話題になった、金メダルに噛みついたジジイとか、東京五輪の開会式閉会式のドタバタ劇見てて、やっぱり日本の高齢者達の大部分は社会の前線に立っちゃいかんのじゃないかなぁ、という思いを強くしましたね。ジジイ野球評論家みたいに評論してるだけだったらまだ害がないんでいいんだけど、ジジイ達が現場にしゃしゃり出てきて色々意見言ったり影響力及ぼすのは本当にやめた方がいいと思う。

昔はね、そこまで長寿を保つ人自体が少なかったから、老人を敬う、というのも意味があったと思うんですよ。そもそも数が少ないから、昔起こったことを知っている数少ない生き字引としての存在価値もあったので、現場を回している若い世代が経験のない事態に直面した時に、知恵袋として色んな参考意見を告げてくれる高齢者の存在意義はあったと思う。でもそんな昔でさえ、高齢者は「隠居」という形で前線から退いて、自分の趣味に時間を費やすのが普通だったんだからねぇ。ましてやこれだけ世の中が変化してきて新しい事態が次々発生する時代に、60過ぎた頭の固いジジイやババアたちが現場で大きな声で若い人たちに指示するってのはもうやめた方がいいんじゃないかなぁ。

「世話になったあの人からどうしてもって言われちゃったからさ」なんていう訳の分からない人間関係のしがらみとか、「このパフォーマンスやる意味はオレが始めたあの工夫なんだよ、あれをやらないと意味がないだろうがよ」なんていう時代の流れやお客様の変化を無視した変なノスタルジー、「これの何が面白いのかさっぱり分からない」なんていう時代への無理解、「女がトップ取るなんてありえないだろう」なんていう時代錯誤、そして「あれをオレがやった時は大変だったんだぜ」なんていう本題と何の関係もない自慢話。そういう「老害」の数々で、色んな現場の労力がものすごく割かれているんじゃないかなぁ。そういう高齢者の数が少ないのだったらまだいいんだけど、高齢者達が一杯寄ってたかってお互いにマウント取り合ったり自慢話大会始めたりしたらもうその現場は大混乱だよね。

しかもたちが悪いのが、この手の昭和のジジイ達ってのは自分の間違いとかを認めて謝るってことが心底苦手なんだよね。ごめんなさい、が言えない。オレの何が悪いっていうんだ、って開き直ってるように見える人が本当に多いんだけど、あれは本当に自分の何が間違っていたのか理解できてないんだと思います。自分の認知できる世界の狭さにも気づいていなければ、その世界の外の視点があるということにも気づけない上に、狭い世界で自分が裸の王様になっていることにも気づけない極端な視野狭窄症。

実際、我々含めたオッサン世代のハートもつかむ色んな新しいパフォーマンスやイノベーションを生み出しているのは、間違いなく若い世代で、その苦労話とかを聞いていると、無理解なジジイ世代に足を引っ張られるのに何くそって歯を食いしばって頑張った、なんていう話をすごくよく聞く気がする。明治維新を引っ張ったのは20代の若い志士達だったのだし、戦後の日本の復興を支えたのも戦争で旧世代が公職追放された後の若い世代の頑張りだった。高齢者が政治や経済の最前線で言いたいことを言えば言うほど世の中って停滞するばっかりだと思うんだよね。昭和のジジイ達が今の世の中を悪くしている、という側面は絶対あると思うんだよなぁ。

政治家に定年制度を設けよう、なんて話がありますけど、いっそ全国民60歳過ぎたら選挙権は返上して皆さん年金もらって静かに隠居していただく、なんてのはどうですかねぇ。文化芸術活動とか、パフォーマンスの世界は60過ぎてから円熟の境地に入る方もいらっしゃるかもしれんけど、そういう方々も製作の現場からはもう退いてもらってパフォーマーとしてだけ活躍していただいてさ。色々評論したりするのまではOKだけど、実際に政治家とか経営者として組織のリーダーになるのは遠慮していただく。そうやって、現場は若い人たちに任せた方が間違いなくこの世の中よくなるんじゃないかなあって思ったりするんだけど、どうなんだろう。まぁそういう私もすでに56歳なので、あと4年もたったら前線から退くことになるわけで、いざ自分がジジイになってしまえば、やっぱり現場で自慢話ばっかりするイヤなジジイになっちゃうのかもしれん。なるべく若い世代の言うことをハイハイってニコニコ聞いてあげられるいいジジイにならなきゃなって、最近本当に思います。

つないでいくためには続けていかないと

所属している合唱団麗鳴の活動は、7月に一度だけ会場練習が出来て以降、再びオンライン練習に戻さざるを得なくなってしまいました。自分は合唱団の「練習責任者」という立場なので、オンライン練習の内容を指揮者の先生と相談しながら作っていかないといけないんですけど、正直オンライン練習のネタを考えるのも結構大変。指揮者の先生に楽典の講義をしてもらったり、ピアニストの先生に協力していただいて自宅練習用の伴奏音源を作成してもらい、これを伴奏にオンラインで歌ってもらったのを先生に講評していただく、とか、個々人が歌った音源を伴奏に合わせて歌ってもらう、とか、色んな工夫を考えながら、とにかくなんとか合唱団として歌に向き合う時間を確保しようと必死。

もちろん、音楽も含めてパフォーマンスの道ってのは奥が深くて、山頂に向かって歩む道は無数にある。オンライン練習の中で初めて自分の歌唱録音に向き合った団員さんもいて、自分の歌を客観的に確認するいい機会になったりするし、歌を作り上げていくプロセスでオンライン練習が無駄とは決して思わない。それでもねぇ、合唱団ってのはやっぱりリアルな練習会場で同じ空気を複数の声で振動させることで生まれるカタルシスが一番なんだよねぇ。それを奪われた喪失感をオンライン練習で補うことなんて絶対できない。

でもね、オンラインでも何でも、続けなきゃいけないと思うんです。続けないと、止めてしまうと、つながらないから。そこで切れてしまった絆をもう一度つなぐのは本当に大変なことだから。それは色んなパフォーマンスアートや技術に共通する話で、様々な職人芸がその芸が支えていたビジネスが衰退するに従ってどんどん失われていくのと同じ構図だと思う。一度切れてしまうと細かいノウハウや知見が失われてしまったり、そこで切れてしまった人間関係が元に戻せなくなったり。会社で仕事していると本当によくある話ですけど、例えば3年前にあったイベントと同じ種類のイベントをやろう、という話になった時、人事異動だの退職だので、そのイベントを経験したことがある社員がいなくなっていて、どうやればいいのか、協力してくれる業者さんの連絡先も失われてしまって、現場がパニックになる、なんてことはよくある話。

それと同じようなことが、コロナによって断ち切られたパフォーマンスアートの現場で一杯起こっている気がする。続けないと、つながらない。その強い思いで、現場は必死に知恵を絞って、入場人数制限をつけたり、配信ライブを組み合わせたり、なんとか「ライブ」という文化をつなごうとしている。観客や聴衆の一人としては、そういう舞台活動をチケット購入という形でなんとか支えないといけない、って思う。

話が急に飛ぶ、と思われるかもしれないですけど、今日閉会式を迎えるオリンピックだってそうだと思うんですよ。サッカーや野球、バスケットボールといったプロリーグで日常的に注目されて、ルーティンとして「つないでいく」仕組みが出来上がっている競技と違って、オリンピックでしか注目されない競技の愛好者にとって、オリンピックというのは競技に注目してもらって競技人口を確保する、まさに「つなぐ」ためのシステムなんだと思う。東京五輪について開催の可否を云々する様々な意見があったのは十分理解できるけど、無観客であろうがこの大会を開催できたことは、きちんとその競技を未来に「つなぐ」ことができた偉業だったと私は思います。

ついでにもっと話を飛ばせばね、今日配信で見た、STRAYDOGプロデュース、「夕凪の街 桜の国」の舞台の感想にもつながるんです。「この世界の片隅に」の原作者、こうの史代さんのコミックスを原作とするこの舞台で取り上げられていたのは、原爆という人類が自ら生み出した最悪の悲劇を伝えよう、想いをつなごう、という意思。あの悲劇の中で虫けらのように焼き尽くされた人々の命の分まで今の自分たちが生きるために、つないでいかなければならない想い。被爆地の現場にいなかった僕らがその想いをつなぐために使えるのは、言葉と、その言葉から想起される想像力しかない。そしてそんな言葉や想像力を最大限刺激してくれるパフォーマンスとして、舞台ほど力を持つものはないと私は思うんだけどね。

想いをつなぐ、というのは、自分の遺伝情報を未来につないでいこうとする生物の本能に根ざした人間の根源的な欲求だと思う。スポーツにせよ、舞台にせよ、自分はいまここに存在していたのだ、ということを後世になんとか残していこうとする人間の本能に根ざしたモチベーションに支えられているのだろうな、と思う。でも人間はそうやって過去の人々が残してくれた遺産や経験の上に立って、さらに上の高みを目指してきたのだし、もう60歳近くなってそろそろ残り時間が少なくなった自分も、なんとか自分が関わってきた舞台芸術や音楽の素晴らしさ、自分の知る人類が犯した悲劇や人類が成し遂げた偉業や感動を後世に伝えるために、できることを日々続けていかないといけないなって思います。

さくら学院 Summer LIVE 2020~舞台芸術は絶対負けない~

今日は、昨日、KT Zepp Yokohamaで参戦した、「さくら学院SummerLive2020~放課後アンソロジー君と見た夏色桜花~」の感想書こうかな、と思ったんですけど、なんか胸つかまれて心も身体もテントウムシのジェットコースターに乗せられて超音速でぶんぶん振り回されたみたいな体験で、なんかちゃんと振り返られる感じがしないんですよねぇ。生徒さん達のこのステージにかける思いとか、しばらく見ないうちにすっかりレベルアップした表現力とか、次々に投下されるサプライズとか、初めて生で見た今年の新曲とか、もうどこを切り取っても輝いていない瞬間がない時間で、本当にこんなにキラキラしている学校があと1ヶ月で閉校してしまうなんて、この世界のばかやろーって気分になっちゃうんだよなぁ。

かつてのスタンディングライブ同様、舞台後方にさくらのエンブレムのバックドロップを落としただけのシンプルな舞台。シンプルなので、生徒の皆さんの身体表現がそのままダイレクトに客席に伝わってくるのがこのセットの魅力なんだよね。学院祭や卒業式のように、舞台セットを使った立体的な位置取りもなく、舞台後方にセットされた大型モニターで生徒さんの細かい表情を確認することもない。平場で移動する生徒さん達の身体だけで描かれるMIKIKOダンスのフォーメーションと、生歌声を含めた個々の表現だけの勝負。これが、舞台上に8人しかいない、ということを忘れさせるくらいのダイナミズムで、10年目のラストイヤーを構成する8人の身体表現が本当にスケールアップしていることに心底感動。

数々あったサプライズの中でも、個人的に涙止まらなくなったのは、美術部のパフォーマンスと「アイデンティティ」の復活でした。野中ここなさんが転入してきた2018年度の美術部は、森萌々穂さんという人のパッションと新谷ゆづみさんとの絆が生み出した部活動で、EHAMICさんの科学部を思わせるキュートで哲学的な楽曲が大好きでした。その新谷さんのパートを野中さんが引き継ぎ、森さんのパートを、同じくお嬢様ポジションの佐藤愛桜さんが引き継ぎ、小さかった野崎結愛さんが3人を部長格として引っ張る。本当に、いつまでもこの衣装で踊る3人を眺めていたいって思った時間だったなぁ。

自分が「アイデンティティ」を初めて聞いたのは、原曲じゃなくて日髙麻鈴さんのギター弾き語りだったんですよ。なんていい曲なんだろうって思って、原曲を聴いたらこれがプログレを思わせる大人のサウンドを持った名曲で、一瞬で大好きになりました。10周年記念誌でも生徒さんの人気が集まっていた楽曲だけど、これは小中学生が歌うのはちょっとハードルが高いんじゃないかなぁって思ったし、なかなか復活は難しいんじゃないか、と思ってた。

今回、8人がこの曲を復活させることができたのは、2019年から2年以上紡いできた8人の絆と成長があったからこそだと思います。コロナのおかげで1年間で新しいチームを作り上げることはできなかったけど、その分、8人の絆は間違いなく成長したんだな、というのを、ものすごく分かりやすい形で見せてくれた名曲の復活でした。

そして何より今回のライブで印象的だったのは、生徒さん達以外の方々の全力のパフォーマンスだったんだよね。自分にとっては完全にレジェンドだった田口華さんと磯野莉音さんのサプライズ参入は呆然としたけど、しばらく芸能界を離れていたはずの磯野さんの舞台上での半端ないオーラと、田口さんの一切手抜きのない全力のダンスには本当に感動。上体を後ろにそらせながら腕を振る田口さんの身体が描く弓なりの曲線が本当に美しかったんだ。そして客席の興奮を煽る清野茂樹さんの熟達の実況。

中でも一番興奮したのはなんといっても照明の凄さ。BABYMETALのBUDOKAN10DAYSでも思ったんだけど、最近ライブが出来ていないことで溜まった想いを全部ぶつけているような、生徒さん達の躍動する身体を見事に彩る芸術的な照明。オトメゴコロの冒頭で生徒さん達を赤く染めたスポットの効果(そのスポットの立ち位置に完璧にスタンバイする生徒さんの位置取りも素晴らしかった)、バックドロップに開いた光の花、そして「アイデンティティ」で生徒さん達を星空の中に踊らせた浮遊感。

自分が関わっているアマチュアのオペラ舞台とかで、照明や大道具をプロのスタッフさんにお願いすることがあるんです。基本プロの方々なのでビジネスライクに段取りを確認していくんですけど、そういうスタッフさんのスイッチが突然入る瞬間があるんですよね。なんか急に子供みたいに目を輝かせて、「この曲いいねぇ」とか、「この演出面白いねぇ」みたいな感じでスイッチが入る。照明さんって特に舞台を異世界に変貌させてくれるアーティストさんなので、「この曲で思いっきり馬鹿馬鹿しくやって欲しいんですよね」なんてお願いすると、目の奥にメラっと炎が上がる瞬間がある。「思いっきりやっていいんだね」みたいな。

そういうスイッチが入る瞬間って、演出意図とか説明している企画側の熱量が伝わった瞬間だったりするんです。この舞台、この曲の中で、こういう世界を作って欲しいんだ、ここで客席の度肝を抜きたいんだ、この舞台を成功させたいんだっていう気持ちが伝わった瞬間に、裏方さんのハートに火がつく。

今回のさくらのライブ、スタッフさん達のハートに火をつけたのは、多分間違いなく生徒さん達のこのライブにかける強い強い思いの炎だったんじゃないかなって思います。自分が着席していたのが一番下手側の端の席だったので、脇の通路をスタビライザー付きのハンディカメラを操るカメラマンさんが駆け抜けることが何度かあったんですけど、このカメラマンさんたちも全員が、この瞬間を記録しなければ、という使命感のようなものを背負った緊張感に満ちていた気がする。途中、何度も長く長く続いて鳴り止まなかった拍手の大きさも、父兄さん達がこのライブに注いだ想い、生徒さん達の想いの共鳴の響きでした。スムーズで全くストレスを感じなかった入場誘導のスタッフさんを含め、そんな生徒さんと父兄の想いにプロの技で応えてくれた舞台を支えた裏方の方々の一人一人に、本当に感謝です。舞台芸術が辿っている長いトンネルの出口がまだまだ見えない中で、昨日のライブで見せつけられたプロの仕事は、トンネルの出口の先に待っている明るい明日を確信させてくれました。さくらの生徒さん達の未来もきっと明るく輝いていると思います。あの「アイデンティティ」のミラーボールの光より、もっとずっと強い光でキラキラ輝いていた8人だもの。

青島広志コンサート&トーク「 恐ろしく怪美なアルトの饗宴」~アルトとお付き合いする人生ってのも~

7月14日(水)に、カワイ表参道のコンサートサロン パウゼで開催された、青島広志先生のコンサート&トーク、「恐ろしく怪美なアルトの饗宴」を鑑賞。今日はその感想を。

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コンサートちらし。曲目見ただけでなんだかぞわぞわしますよねぇ。アルトあるいはメゾが歌うオペラアリアを並べると、どうしても「魔女」だの「占い師」だの「老婆」だの「霊媒」だの、大変オカルトっぽいキャラが多くなるので、演奏会のタイトルもそういうニュアンスのタイトルになり、実に夏場にふさわしいコンサート、という感じでした。(待てよ、このコンサート、もともと五月頃に開催予定だったのがコロナで延期になったのか?このチラシの写真の日付も5月になってますね。5月の怪談。)

MCにせよ、選曲にせよ、エンターテイメントとアカデミズムがシニカルな諧謔で絶妙にブレンドされた青島先生ワールド全開。楽しく笑いながら音楽の歴史や背景や原典まで学べてしまうという、世の中の学校の授業がみんなこんな風だったらきっと日本の子供達はもっと学校が楽しくなっただろうなぁ、と思わせてくれる本当に楽しい時間でした。演奏会の後に、今度青島先生が書かれた新作オペラ「瓜子姫の夜」の原作者、諸星大二郎先生の作品群を巡って青島先生と少しお話できたのも凄く嬉しかった。青島先生がお好きだという「栞と紙魚子」シリーズ、私も大好きなので、もっと色々語りたかったなぁ。

怪美、なんて言われてちょっとおどろおどろしい印象を強調されたアルトの歌い手さん達4人、どの方も青島先生の諧謔にも負けず本当に素敵なパフォーマンスを見せてくれました。今回登場されたソリストの方々のうち、三橋先生、三津山さん、久利生さんは、女房の公演で共演させていただいたことも多く、舞台を降りた後に言葉を交わすことも何度もあるんですけど、歌が素敵なだけじゃなくて、お三方とも本当にキャラがいいんですよ。おどろおどろしいなんてこと全然なくって、なんともさっぱりしたいい方達ばっかり。三津山さんは、実は2000年(もう21年も前!)に、大田区民オペラの「コシ・ファン・トゥッテ」でドラベッラを歌ってらして、その時合唱団にいた私のことを覚えてくださっていた。「よく覚えてますよー」って言われて本当に嬉しかったです。

そう思って身の回りを見回してみると、アルトとかメゾソプラノの方ってのは結構いい方多いんだよねぇ。ずいぶん昔に、この日記で、ソプラノ、アルト、テノール、ベース、という声の声部と性格が多少リンクしてるんじゃないか、みたいな分析をしたことがあったんだけど(こちら→ 声と性格 - singspieler’s diary )、そのときにアルトについて書いたところを抜粋してみると、こんな感じ。

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あまりこだわりがなく、何でも包容してしまう。あんまりこだわりがないので、音程にもこだわりがなく、かなりテキトーな音を出していることがある。あんまり包容力がありすぎて、律儀なアルトは、自分で抱え込みすぎて自爆することがある。律儀でないアルトはなんでも笑って済ませてしまう。笑い声が豪快なので、笑うと済んでしまう、という利点もある。意外と自己主張がなく、高い声で自己主張するソプラノに流されてしまう傾向あり。平均年齢が高い合唱団では多数派を占め、平均年齢が低い合唱団では少数派で希少価値あり。豪放な声の割りには女性らしく、包容力ある優しい性格なのだが、オペラでは逆で、男勝りの自己主張の強いキャラクターを演じることが多い。ソプラノの中には、そういった役への憧れから、強い「メゾソプラノ願望」を持つ人がいるらしいが、当のアルトたちは、そういう自分に対するこだわりもあんまりない。

 

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こう書くと多少ディスっているように思われるかもしれないけど、単純にアルトっていい人が多いと思うんだよなぁ。プライド高くて自分中心でみんなに注目されないと気が済まなくて人に厳しくてベースが少し音を外しただけで刺し殺すくらいの視線でにらみつけてくる声の高い女性パートの方々より大変温厚で心が広くてそのくせちょっと控えめで優しい方々が多い気がする。アルトの方々とお付き合いする人生ってのもよかったのかもしれないなぁ。あれ、オレの女房の声部ってなんだっけ?

 

山田武彦のパラダイス銀河を旅する~山田武彦と東京室内歌劇場Vol.6~

7/10、緊急事態宣言前夜の東京飯田橋トッパンホールで開催された「山田武彦と東京室内歌劇場Vol.6」を鑑賞。夜の予定があったので、ラストの応援歌メドレーの前で途中退場してしまったのだけど、山田武彦先生の該博な音楽知識と、それによって新たな魅力を吹き込まれたポピュラーナンバーの数々を楽しむ。

いきなりちょっと違う美術の話をしますけど、中野京子さんの「怖い絵」がヒットする前から、象徴主義の絵画が結構好きだったので、絵画を見る時に、そこに描き込まれた様々な「象徴」を読み解く楽しみ、というのをある程度知ってたんですよね。西洋絵画に限らず、日本の浮世絵なんかも、ディテールの中に別のメッセージが隠れていることがあって、それを紐解くことで、絵画の意味が多層化するのが面白かったりする。

それって、その時代の文化や宗教、歴史といったいわゆる「一般教養」の厚みがどれくらいあるか、ということにかかってくるので、中野京子さんもそうだけど、例えば少し前にこの日記でも紹介した山田五郎さんの「大人の教養講座」の動画にしても、同じ美術品を見てもこの人には全然違うものが見えているんだなぁって、いつも感心してしまう。よく美術品とかは、「知識とかなくても、まずは感じることが大事」と言われるし、そうやって感性を磨くことも確かに大事なんだけど、「感性」という曖昧な価値観で、画家が本当に描きたかったことや、美術品をきっかけとして広がっていく豊穣な知的冒険を楽しめないことを許容してしまうのは、ちょっと違うと思うんだよね。

そういう楽しみ方って、音楽の中にもきっとあると思っていて、その中でも、自分が好きなオペレッタの世界、特にオッフェンバックの作品に触れる時にその感覚を強く感じるんです。オッフェンバックという人は恐ろしく該博な音楽的素養と天才的な作曲能力に悪魔的な諧謔精神が一体化した巨人で、その作品はどれもこれも徹底的に馬鹿馬鹿しいのだけど、どこかに様々な過去の音楽遺産や同時代の有名音楽家に対するオマージュやパロディがちりばめられている。それが彼の作品を無駄に名曲にしていたり、妙に意味深長な作品になっていたりする所以なのだろうけど、自分自身がそんなに音楽の素養がないものだから、今ひとつ理解が深まらない。これはどう聞いてもモーツァルトのパロディじゃないかな、とか、ヴェルディをコケにしてるんじゃないかな、とか思う瞬間があるんだけど、しっかりそれを分析、指摘することができないもどかしさ。

今回の「山田武彦と東京室内歌劇場Vol.6」は、まさに現代日本オッフェンバックともいえる音楽の素養と諧謔精神溢れた山田武彦先生が、自分の種々雑多な音楽の引き出しの中に、日本歌曲やカンツォーネ、ドイツリートや歌謡曲をぶち込んで、ガチャガチャに引っかき回して取り出して並べてみた、という感じ。「われは海の子」がいつのまにかドン・カルロの熱い友情の二重唱になったり、ヴェトナム民謡の旋律が気がつけば「椰子の実」につながったり、寺山修司シューベルトが絡み合ったり、ショパンのピアノコンチェルトが小林亜星の「北の宿から」に変容していったり、もう自由自在。

これだけ自由自在にやられると、なんだか悔しくなってくるんだよね。元ねたが分からないアレンジが一杯あって、「ああこの元ねた知ってたら絶対もっと楽しいよなぁ」って思ってしまう。自分の音楽の素養や教養を試されているような気にもなるんだけど、それが決して不愉快な感じにならないのは、どのアレンジも遊び心とオリジナルの曲やオマージュされた元ねたへのリスペクトに溢れていて、決して押しつけがましさやこれみよがしな感じがしないから。よくあるつまらないレクチャーコンサートなんかよりもよっぽど情報量が多い上に、エンターテイメントとして心底楽しめる。まさにオッフェンバックオペレッタみたい。なんだか山田武彦先生の頭の中の宇宙、というか、「山田武彦のパラダイス銀河」みたいなキラキラした世界を旅しているような気分になる。

そしてその「パラダイス銀河」を彩る演者の方々も本当に素敵で、特に凄いなぁ、って思ったのは、山田先生が投げるボールを軽々と受け止めてさらに彩りをつけて返球してくる感じの、バイオリンの奥村愛さんとバンドネオン北村聡さん。バイオリンってこんな音色まで出せるんだって改めて思ったし。バンドネオンってピアノみたいにリズム楽器にも旋律楽器にもなれるんだなぁって改めて感嘆。

安定の歌唱と表現力で「山田武彦のパラダイス銀河」を軽々と歌い、踊った歌い手さん達も、皆さん本当に素敵で、ちょっと特定の方について語れない感じなんだけど、あえてあげるなら、吉田信昭先生の「クスリ・ルンバ」(プログラムに載ってないところが草)が最高におかしかった。あと明珍宏和さんは「ワイン・レッドの心」も「また逢う日まで」も普通に無茶苦茶お上手でした。普通にお上手なだけだとなんか物足りなくなってしまうのがこのシリーズの恐ろしいところで、「また逢う日まで」でもみあげ貼って出てこられたのは、何かしないとヤバい、という現場の雰囲気を感じておかしかった。またお世話になったうちの女房も、「コーヒー・ルンバ」で安定の吉田先生との色モノデュエット、エキゾチックにアレンジされた日本歌曲の二重唱をしっかりこなしていました。シュトラウスの春の声のように仕上げられたワルツ「みかんの花咲く丘」は、なんかラクメの花の二重唱みたいな浮遊感を感じたなぁ。

山田武彦ギャラクシーを存分に楽しめた今回のコンサート、女房が大変お世話になりました。そしてアナザー山田武彦ギャラクシーとしてすっかり定着した「ああ夢の街 浅草」も、新作「蝶々夫人」を加えて秋に再演される、とのこと、今から本当に楽しみです。

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天才山田武彦先生を女性陣で囲む

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クスリ・ルンバを引きずったコーヒー・ルンバの衣装(このあとルンバっぽくなる)

ガールズバンドを巡って、東西宗教観にまで話を広げてやるぜ

大体、私がこの日記で大層なタイトルをつける時には、色々と衒学的な考察とも思い込みともつかない浅薄な議論を並べた挙句に「やっぱりBABYMETAL最高」というヲタ話で終わる、というケースがほとんどのような気もしますが、今回もそうなるかもしれません。本当にそうなるかどうか、最後まで見守る気力がある方は是非お付き合いください。まぁ普通の人はここで見限りますわな。でも、ヲタ話というよりは、どっちかというと、衒学的ではあるけれどちょっと一般的な文化論を並べてみたい、と思います。

きっかけは、というと、タイトルで一部の方は「あれか」と思われるかもしれませんが、先日放送された「マツコの知らない世界」ですよ。ベビメタが取り上げられる、というヲタ界隈の情報に惹かれて見たんだけど、様々な視点から最近の「ガールズバンド」の隆盛について分析していて、すごく面白かった。その中で、NEMOPHILAのSAKIさん(美人で超絶テクのギタリストという、天が二物を与えた方)が、

「海外のメディアに『どうして日本は女性蔑視社会と言われるのにこんなにガールズバンドが盛んなのか?』と聞かれて、逆に、『じゃああなたの国では男女平等と言われているのになぜガールズバンドが生まれてこないの?』と聞くと、誰も答えられないんですよね」

とおっしゃっていたんですよ。その時、ふっと、

「そりゃイエス様とアマテラス様の差じゃない?」

と思ったんです。

なんじゃそりゃ、と思われるかもしれないですけど、男女平等、と言われる欧米社会における基本的価値観であるキリスト教は、神の真理や真実を伝えたイエスキリストと、彼を母性によって支えた聖母マリア、という二本の価値観の柱を持っているわけですよね。この二本の柱、二人の男女の性格付けっていうのが、文化表現においても大きな影響を与えているんじゃないかな、と思ったんです。特にロックという音楽ジャンルにおいて、社会に対する抗議や政治的主張、といった「預言者」的な発信をするカリスマ性というのは、男性専属の属性であると認識されることが多かったのじゃないか。

そう思えば、欧米で人気の女性シンガーが軒並み「女性」をアピールしているのもなんとなく理解できないかな、と。聖母マリアに与えられた属性は「母性」という女性の特性であり、また、聖書におけるもう1人のマリア、マグダラのマリアは元娼婦です。結局キリスト教の倫理観、価値観において、イエスに象徴される男性的なものは、よく通る声で真理や進むべき道を示し、マリアに象徴される女性的なものは、母性や豊穣という価値観を担ってるんじゃないかと。マドンナがおっぱい丸出しの衣装で踊り狂ったりするルーツはマグダラのマリアの献身にある、なんていったら笑われるかもしれんけど、彼女達の発するカリスマ性がセックスアピールから逃れることができないでいる呪縛を説明する一つの鍵にはなるかもしれない。

そう思うと、私が割と関わっているオペラの世界、特にイタリアオペラが、テノール歌手の美声をその軸に据えている、というのも、ひょっとしたら同じルーツから来ている現象なのかもしれない。音楽という娯楽が古くから宗教と不可分であったことを考えると、神父様や牧師様の説教を聞く宗教的恍惚感と、テノール歌手のハイCやデスメタルボイスの男性ボーカルに痺れる感覚というのがどこかでつながっている、というのも、あながち考えすぎじゃないのかも。

それに対して日本はどうなの、といえば、国津神の頂点に君臨するのはアマテラスオオミカミ様という女神なのですよ。武家社会において女性の地位が低かった、という話はあるけれど、あれは武士階級に限った話で、庶民の間では「山の神」として家を支える女性の神性は維持されていたし、何より神託を人に伝えるのは多くが「巫女」と言われる女性だった。つまり女性が天界や異界との間をつなぐカリスマとして機能していたわけだし、様々な新興宗教が女性の教祖を持っているように、女性は天の声を地に伝える役割を担っている、という価値観が古代から綿々と続いていたのじゃないかと。

そして日本の宗教観の凄い所は、女性のセックスと神性を矛盾なく結びつけてしまう所なんだよね。マグダラのマリアのように過去の自分の行状を悔いたりしない。全く逆で、セックスアピールによって世界を救うのが、世界初のストリップショウで天岩戸に隠れたアマテラスをおびき出すアメノウズメノミコト様という女神様。アメノウズメノミコト様は歌舞音曲の神様でもあるわけだけど、ここでは、女性という「あざとさ」という武器が、世界の危機を救う最終手段として賞賛されている。まさしく、「女性のカワイイは世界を救う」のが日本の価値観なんだよな。

つまりキリスト教という男性的な価値観をベースにした欧米においてガールズバンドが生まれてこず、日本神話という女性の神性をおおらかに肯定する価値観を持つ日本においてガールズバンドが違和感なく生まれてくるのは必然なんじゃないかな、と思ったんです。じゃあなんで日本は女性蔑視社会といわれるのさ、というと、儒教倫理観をベースとした戦闘集団である男性優位の武士社会の価値観が、明治維新以降、女性信仰を残していた庶民も守るべき倫理観として押しつけられた結果だと思うんだよね。文化や芸術、宗教といった内面においては女性的であり、政治、経済という外面においては男性的である、という日本独特のダブルスタンダードは平安の昔からあったけど、明治以降、それがシステム的に女性の「政治・経済」という表舞台への進出を阻む形になったのじゃないかと。そういいながら明治政府の根本価値である皇室の祖は女神アマテラス様である、という点でちょっとねじれているんだけど。

一方で、欧米においても女性の神性が称えられた時代がないわけじゃなくて、前キリスト時代のギリシアローマ神話体系にせよ、ドルイド教にせよ、異教といわれた原始宗教は多くの女神を抱えていたし、乳房の沢山ある女神像などは原始宗教における多産の女神の伝統を継いでいると言われる。そういう女性の神性をテーマの一つにした有名なオペラが「ノルマ」だったりするのだけど、このオペラと、極めてキリスト教的男尊女卑の思想に貫かれたモーツァルトの「魔笛」を、欧米における男女の価値観の相違、という視点で見比べたら結構面白かったりするんだよね。

さて、話をそろそろクローズしていこう。ガールズバンドに注目し始めた欧米が日本発信のこの「女性の神性・カリスマ性」という価値観に目覚めたとしたら、それはキリスト教的価値観からギリシアローマ神話の時代の価値観に回帰しようとしたルネッサンスの革命に近いパラダイムシフトなのかもしれないし、セックスを売りにしないとスターダムにのし上がれないという欧米の女性シンガーを縛る呪縛を解消するきっかけになるかもしれない。その先頭を切った存在として、BABYMETALが「ガールズバンドへの注目を高めたきっかけ」として紹介されたのは、BABYMETALの持つ神性、カリスマ性が、欧米の伝統的な価値観そのものを覆すだけのパワーを持っていたことに他ならないと思う。で、ここで終わってしまうと冒頭に書いた通りのヲタオチで終わってしまうんですが、今回はちょっとここで終わりたくないんですよね。

というのも、日本発信のガールズバンドへの注目、というのを、「かっこいいロックサウンドをバックに巫女のようなカリスマ性を持った女性ボーカリストが歌う」バンド形態への注目、と言い換えることができるのであれば、BABYMETALよりもはるか昔にその先鞭をつけた偉大なバンド、サディスティック・ミカ・バンドに触れないわけにはいかないんじゃないかと思っちゃったんだよなぁ。「黒船」が愛聴盤だったから余計にそう思っちゃったんだけど、ミカ・バンドの革新的なサウンドに影響された欧米バンドはいっぱいあって、ブロンディなんか、ミカ・バンドの影響無茶苦茶受けてると思う。「マツコの知らない世界」がミカさんを取り上げなかったのがちょっと残念なんだよなぁ。

最近見てる配信イロイロのこと

コロナの影響もあって、YouTubeの配信動画とか、配信ライブとかを見る機会がすごく増えたんですが、イベント的に配信されるステージライブの配信だけじゃなくて、なんとなく習慣のように見てしまう配信番組も結構増えてきました。そんな中で、最近、更新されると割とよくチェックしているお気に入りの配信番組をいくつかご紹介。

 

1. 遠坂めぐさんの配信ライブ

遠坂めぐさんのことはこのブログでも何度か取り上げています。元々はさくら学院つながりで、さくら学院の卒業生の山出愛子さんの楽曲、「3月なんて」「ピアス」「365日サンタクロース」「はなまる」の作詞作曲共作をされていて、それでお名前を知ったのだけど、オリジナル楽曲含めて、どの作品も本当にいいんだなぁ。キャッチーなメロディで、等身大で時にユーモアも交えながら、印象的なコード進行の中にフッと胸に刺さる言葉を綴るセンス。そしてなんとなくプリンセスプリンセス奥居香さんを思わせるパワフルで貫通力のあるボーカルと安定したピアノ。

この遠坂さんが、毎週土曜日の夜11時からYouTubeで配信ライブをやっていて、なんとなくそれを視聴するのが毎週の日課になってしまいました。毎回何かしらぐっと心つかまれる瞬間があるんだよねぇ。ちょっとほろっとさせるオリジナル曲の演奏ももちろんいいのだけど、アイドルさん達に提供した楽曲の制作秘話とかも、人のつながりで出来上がっている音楽業界の舞台裏を垣間見るようで楽しい。

何より感心するのは、個人でやっているのに、毎週欠かさず土曜日の夜に配信を続けている生真面目さ。クイズコーナーで正解した人のリクエストカバー曲を翌週歌う、というコーナーが毎週あるんだけど、一週間で伴奏含めて曲を仕上げて見事に歌いきってしまうプロの仕事ぶりにも感心する。私なんか一曲歌曲まともに歌えるようになるのに一年かかったりするのになぁ。鍛えられた音感のおかげなんだろうけど、それでも並の努力じゃないと思う。毎週これをやる、と決めたことをしっかり続けるってなかなかできないと思うし、そういう安定した仕事ぶりが、色んなアーチストさんに愛される楽曲を提供している実績につながっているんだろうなぁ。

活躍の場をどんどん広げている期待の作曲家さん、という感じなのだけど、まだ二十代半ばの若さのキュートなお嬢さんなので、なんとなく親目線で応援している感覚もあって、そのあたりはさくら学院の生徒さんを応援している時の父兄目線に通じる所もある気もします。この人の曲は絶対「みんなのうた」に合うと思うんだよねぇ。いつかこの人の曲がNHKで流れるのを聞きながら、「オレこの作曲家さん昔から応援してたんだぜ」なんて自慢してみたい。さくらの卒業生がテレビに出てくるとにやけてしまうのと共通するパトロネージュの心理だな。

ということで、最近YouTubeで配信開始になった「恋人はシンガーソングライター」のMVのリンクを貼っておきます。これも楽屋オチっぽい感じもするのに普遍的な男女の葛藤を描いていて、このカップルを思わず応援したくなるキュートな楽曲です。

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2. 特撮女子パンナ

何でこの方の動画を見つけたのか、といえば、仮面ライダークウガYouTube配信があった時に関連動画を漁っていて偶然見つけた気がするんですけどね。この方の動画は本当に面白い。なんといってもその特撮に関するエンサイクロペディア的な知識の豊富さ、早口のナレーションで語られる台本の情報量の多さに圧倒される。どちらかというと戦隊もの仮面ライダーシリーズにちょっと傾斜している感じがあって、私が知らない戦隊シリーズと新しい仮面ライダーの話題になるとちょっとついていけないんだけど、昔のレア特撮や東宝特撮を取り上げる時も、「よくそんな情報知ってるな」と思うような博識さ。

そして何よりこの人の特撮に対するアプローチが非常に知的なんだよね。統計学的手法を駆使してみせたり、ちょっと民俗学的な視点で切り込んだり、そしてそれを動画として見せる編集技術も素晴らしい。パンダのお面をかぶったパントマイム、映し出される画像と笑えるキャプション、全部のバランスがものすごく洗練されている感じがある。あふれ出る特撮愛だけじゃなくて、動画制作の一つのモデルとしても勉強になるチャンネルです。

下記のリンクは「レア特撮」というテーマで続いた何本かの動画の一本目。「レア度」をGoogle検索のヒット数で数値化する、という分析的手法と、それぞれのレア特撮に関する知識の豊富さにうなったんだよね。

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3. 山田五郎のオトナの教養講座

サブカルチャーという言葉がまだメジャーじゃなかったころからタモリ倶楽部でお尻評論やってた山田五郎さんによる美術解説動画。あきれるほどもの知らずのワダさん相手の漫才のような掛け合いももちろん面白いのだけど、やはり圧倒されるのは山田さんの博学ぶり。

美術を見る際の「基礎知識」があるとないとで、作品を見る深度が全然変わってくるのだけど、この配信チャンネルを見ると、「へえ、そうだったのか」って思うことがいっぱい出てくるんだよね。私も美術品見るのは好きなので、多少なり知ってたつもりだったけど、まだまだ全然知らないことだらけだったんだってワクワクしてしまいます。

山田さんの語り口の絶妙なところは、そういう基礎知識や歴史といった学術的なことを語りながらも、決してアカデミズムに陥らない所なんだよね。どこか俗っぽい下世話な視点からの分析も残していて、巨匠と言われる画家たちも、この人の口で語られると本当にリアルな人間像として立ち上がってくるから面白い。ゴッホってのはかなり厄介なオッサンだと思ってたけど、本当に面倒くさい人だったんだなぁって納得したり。

ということで、個人的に「なるほど、ヌードっていうのは絵画において非実在・神性の表現だったのか」とか、「ロマン派って、言語から来ていたのか」とか、色んな新しい気づきがあった配信回のリンクを貼っておきます。凄く情報量の多い教養動画なのに、タイトルが「なぜ丸出し?」っていう所が山田五郎さんっぽいよねぇ。

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YouTubeには本当に色んな情報やエンターテイメントが溢れていて、玉石混淆の中から心に刺さるものを掘り起こす苦労もあるけれど、でも時々すごく素敵なエンターテイメントが埋もれていたりするんですねぇ。コロナ時代に改めて、ネットの奥深さを実感した気がしています。