さくら学院の閉校と美徳の凋落、あるいは、日本の地方の地盤沈下について

さて、今日はさくら学院のこと書きます。と言いつつ、タイトルがなんだか大仰なのはいつものことですが。例によって興味のない方はここでご退場くださいね。

さくら学院の一年後の閉校、という衝撃的なニュースが9月1日に発表されてから中々立ち直れなかったんですが、新年度もスタートし、ラスト一年となった8人の現役メンバーが、それぞれに与えられた役職に正面から向き合う覚悟を決めたキラッキラの表情を見て、もうとにかくラスト一年見届けるしかないな、とは思っています。思ってはいるけどこの喪失感の大きさって何なんだろう、と考えた時に、単なる推しのアイドルグループの活動が終わる、というより、何かしらもっと大きな価値、というか、自分にとって大事にしていたものが失われてしまった喪失感なのかなぁ、なんて思っていて。それがある意味確信に変わったのが、先日のfreshで放送されたオリエンテーションで、佐藤さんが身長測定の前に、自分が脱いだ靴をきちんとそろえているのを見た瞬間なのだね。サドの「悪徳の栄え」的に言えば、「美徳の凋落」というか。

私みたいな昭和世代が「アイドル」といって最初に思いつくのは、ピンクレディーキャンディーズ山口百恵桜田淳子、といった70年代アイドルなのだけど、彼らの存在の前に「元祖アイドル」ともいえる存在がいて、それって吉永小百合さんに象徴される「聖女」的な存在だったんだよね。ある意味非現実的なくらいの清潔感、清楚感を持つ手の届かない偶像。その偶像をもっと身近な、隣のお姉さん、と言う感じの親しみのある存在にしたのが70年代アイドルの特性だったのかな、と思うし、さくら学院の生徒さんにも、「近所に住んでいるしっかりしたお嬢さん」という感じの70年代アイドル的親しみも感じる。

でも、先日のfreshの佐藤さんの姿や、いみじくも2018年度卒業生三人を迎えた「もちこみっ」の放送で、田野アサミさんが、「こんなに真っ直ぐご挨拶してくれるしっかりした子たちはいない」とおっしゃって、森ハヤシ先生が、「そりゃポテンシャルの差でしょ」とおっしゃったエピソードなどが示すように、さくら学院の生徒さんに共通する、「行儀のよさ」「清楚感」「ステージにかける真摯な姿勢」といった様々な「美徳」の数々は、吉永小百合さんのような戦後銀幕のスター達、いわゆる「偶像」が必ず備えていた特性でもあった。「この子たちは本当にしっかりしているね」と言われるさくらの子たちの備えていた「美徳」というのは、アミューズという育成機関で学んで備わったもの、というより、森先生のいう「ポテンシャル」、つまりは育った家庭環境やご家族のしつけ、教育方針による部分が大きいんじゃないかな、と思うんだよね。

さくら学院の生徒さんの出身地が、近年とみに地方に偏っていた、というのも、偶然ではない気がしていて、要するに昭和の銀幕スターが持っていた美徳を美徳として維持していたシステム、古き良き日本が持っていた「家庭でのしつけ」「基本的な行儀作法」というのが、日本の地方では今でもきちんと継承されている、ということなんじゃないかと。首都圏のように核家族化が進んでいる地域でお子さんの教育や古き良き行儀を支えるのはご両親に負担が集中してしまって至難なんだろうけど、おじいさんおばあさん世代がお孫さんにそういう基本を伝える機会がある地方でなら可能なのじゃないかな、と。新谷さんをはじめとして、地方出身のさくらの子たちは、よくおじいさんおばあさん世代のサポートへの感謝を口にするのだけど、そういう地方ならではの家族ぐるみの「美徳の継承」が、さくらの子たちの「ポテンシャル」を支えていたんじゃないかな、と思うんです。

佐藤さんの行儀のよさにそういう姿を垣間見た気がした反面、逆にそういう子たちをさくらの転入生として見つけてくることがすごく困難になってきたのじゃないかな、と。さくら学院の転入生候補生であるアミューズキッズの数が近年非常に減ってきているのは、日本の少子化の影響かな、とか、アイドルや芸能活動に子供を従事させたいという親御さん自体が減ってきているのかな、とも思うのだけど、何より、アミューズが考える、「基本的な家庭の躾ができているお子さんと家族のサポート」がしっかりしているお子さんが少なくなっているのじゃないかと。

地方豪族、という言い方をすることがあって、地方で成功している裕福なお家のお子さんが、祖父母世代も含めた家族のバックアップを受けて芸能活動で成功する、というモデルが存在してたんじゃないかな、と思うんですよね。その中での精鋭たちを集めたのがさくら学院だとするなら、さくら学院の閉校というのは、そもそもそういう人材を育成し供給する地方のシステム自体が機能しなくなっていることを意味するのじゃないかと。

地方でそういう「美徳を維持するシステム」の中核を担っていた祖父母世代の高齢化、というのもあるだろうし、地方自体の経済力の弱体化で、首都圏にあるレッスン場に毎週のように子供たちを送り出せる経済力のある「地方豪族」ともいえる裕福なお家も少なくなっている、というのもあるかもしれない。いずれにせよ、日本の地方が高齢化と経済的な地盤沈下で衰退し、「美徳の維持システム」が機能不全を起こした結果が、さくら学院の閉校という現象の背景にあるんじゃないかな、と。

コトを大きくとらえすぎ、というご意見もあるだろうけど、さくら学院の閉校、というニュースに触れた時に感じた喪失感やがっかり感というのは、自分が属していた「昭和」という時代の持っていた美徳を若い世代がしっかり守ってくれている、という頼もしさや喜びが失われた喪失感や、昭和の美徳を失った日本の将来に対するがっかり感だったりするのかも、と思っちゃうんです。それくらい自分の喪失感が大きいことに改めて驚いたりしているけど、とにかくこの奇跡のようなグループが10年も続いたこと、卒業生含めた36名と、このグループの活動に様々な形で関わった方たち(森ハヤシ先生はじめ、田野アサミさん、宮木あや子先生、山下良平先生など)をこれからも「父兄」として応援し続ける幸せと、その幸せをくれたこのグループに出会えたこと、この奇跡の学校を10年維持し続けた職員室の先生方、そして何より、この「さくらの子」たちをこの世に送り出し、その美徳を支えてくれたご家族の方々に感謝したいと思っています。これからも36名の応援は続けますよ。2018年の三人のうち、新谷さんは大活躍だけど、日髙さんも麻生さんも絶対出てくるし、@onefiveはビジュアルもパフォーマンスも一級だし、大賀さんの今後の活躍も楽しみだし。「父兄」やめる時は死ぬ時だからねぇ。

「遥かな友に」動画アップのこと

先日開設して、過去のサロン・コンサートの舞台動画などをアップしていたYouTubeチャンネル。現在は、先ほどこの日記にも書いた、ソロ・リサイタルの第二回目をアップするべく、動画編集にいそしんでいる所ですが、その前に、ちょっと新しい挑戦をしてみようか、とトライしたのが、9月初旬にアップした下記の動画。この動画制作のプロセスなどを、裏話風に。

youtu.be

配信チャンネルを作ったのは、ソロ・リサイタルも延期になったコロナ禍のもと、舞台表現を続けてきた人間として、何かしら発信を続けていかないと、という危機感からでした。GAG公演のコンテンツも尽きてしまって、さてどうしようか、と思った時に、自分の企画の舞台動画を公開する、というアイデアと共に、自分のオリジナル小説の朗読コンテンツ、というのを思いついた。

配信動画を制作するプロセスで、どうしてもネックになるのが、著作権です。一過性の舞台であれば、無料公演である限りはそれほどナーバスになる必要もないのですが、GAGのメインコンテンツである朗読シリーズは原作があるので、著作権のことを気にしなければいけない。不特定多数の人たちにコンテンツを公開したい、となれば、著作権を気にしないでいいオリジナルの作品が一番よい。

そう考えると、自分自身、小さなお話を書き綴るのが好きで、書き溜めた小説もいくつかある。これを朗読するコンテンツを公開すればいいんじゃないか、と。

昔から少し思っていた夢の一つで、自分が書いた小説の朗読舞台の上演、というのがあって、でもどう考えてもお客様を呼ぶことができないなぁ、とやる前からあきらめていました。そもそも朗読舞台自体、そんなにお客様が呼べるイベントではない上に、誰も知らない素人の書いたお話の朗読舞台にだれが足を運んでくれるか、と。

そう思ってあきらめていた夢が、配信チャンネル、という形で実現するかもしれない、と思って、ちょっとワクワク。今まで書いた短編小説の中で、朗読、というよりも、ちょっと一人芝居的な感じでパフォーマンスできる「遥かな友に」というお話を選びました。

このお話は、2010年にニューヨークに赴任していた頃にお世話になった、ニューヨーク混声合唱団での経験をもとに書いた連作のうちの一つです。ちょうど東日本大震災が起こった直後で、自分自身の色んな鬱屈した思いが淀んでいるねっとりしたお話が多い中で、この「遥かな友に」は、当時のニューヨークでまだ生々しく残っていた911の悲劇の傷跡と、それを癒す音楽との出会いを描いて、自分なりに思い入れもありました。ところどころに、今までやってきた合唱経験の中で、団員さんから聞いた色んな言葉も思い出しながら書きこんでいたりします。

知り合いに、合唱譜面からピアノ演奏を即興でやってもらったり、買ったばかりのコンデンサーマイクを使ってみたりしながら制作した手作り感満載の素人動画ですが、一つこだわったのは、途中編集なしの一発録りでやる、ということでした。どこかでライブ感を残しておきたい、と思ったんですが、これが結構大変で、結局10回近く録り直しを重ねた最終形が、アップロードしたものになっています。

聞いてみれば、やはり朗読のプロの方とは全然違う素人臭さ満載ではありますけど、あの頃ニューヨークで感じた、911という悲劇が、普通の市井の人の人生を突然断ち切った、という生々しい思いを、少しでもお伝えすることができれば、と思います。

あとは、やっぱりこういう配信チャンネルって、視聴くださった方々の反応が見えないのが不安ですね。いいコンテンツだと再生回数がぐんぐん伸びるんだろうけど、こんな地味なコンテンツだとそういうわけにもいかないし。

でも、それなりに面白い試みでしたし、自分自身の朗読スキルを試す、という意味でも面白かったので、この配信チャンネルでは、舞台動画だけでなく、こういった朗読パフォーマンスもアップしていければ、と思っています。経験値と共に、クオリティも上げていければ、と思いますので、温かい目で見守っていただけたら嬉しいです。

 

8月28日のソロ・リサイタルの感想をば。

 一か月以上、このブログの更新さぼってました。すみません。インプットについていえば、推しのさくら学院について、あまりに衝撃的な大きな発表があって、全然頭の整理ができておらず、アウトプットについても、配信チャンネルのコンテンツ作りに結構手間がかかったり、と、なかなかこのブログの更新に向き合えずにおりました。

さくら学院については、まだ自分自身が何か語れる状態にないのと、もう少し運営の方針を見極めたい思いもあるので、少し時間をおいて語りたいと思っているのですが、自分のアウトプットについては、なるべく新鮮なうちに書き留めておいた方がいいか、と思います。なので、今日は、8月28日に新宿御苑のサロンで開催した、自分のソロ・リサイタルのことと、先日配信チャンネルにアップした朗読コンテンツのことを書こうか、と思います。ということで、まずは、ソロ・リサイタルのことを。

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ソロ・リサイタルの会場のマエストローラ音楽院。とても素敵な空間です。

 

8月28日に開催した今回のソロ・リサイタルは、本当は6月に開催する予定で準備を進めていたものでした。2019年に第一回を開催してちょっと味をしめてしまったソロ・リサイタルの二回目。サポートいただくピアニストの小澤佳奈さんと、ゲスト歌手として色を添えてくださる君島由美子さんの3人のチーム感の心地よさもあって、またやりたいね、と企画したのだけど、例によってコロナの影響で開催の目途が立たず。どうしようか、と思ったのですが、どこかで、集客とか採算性などを度外視できる我々みたいなアマチュアが、ライブに後ろ向きになってどうする、みたいな想いもあり、感染対策を様々ほどこす形で開催することとしました。

エストローラ音楽院は、通常だと40名弱、最大で50名のお客様を収容できるサロンですが、事前に会場とも相談し、キャパは10名に限定。お陰様で心優しい身内のお客様を中心にあっという間に席は埋まったのだけど、せっかくお客様の数が少ないのだから、逆にお客様とのコミュニケーションを一杯取りたいな、と考える。それに、そもそも自分自身、歌だけで一つのステージを構成できるような歌い手ではない、という自覚もあり、途中にクイズ大会なども絡めたバラエティ・ショウのような構成のステージにしました。

こういうステージ構成には実はもう一つこだわりもありました。そもそもプロのクラシック歌手であれば、「xxの歌う『冬の旅』」みたいな感じで、演目が事前に公表されていて、クラシックの定番であるこの曲をあの人が歌ったらどうなるだろう、とか、現在の最高のリート歌いである、この歌手のこの演奏をきかねば、といった、過去の名曲の解釈や歌手の個性を楽しもうというアプローチが普通だと思います。あるいは、誰かが発掘してきた名作曲家の隠れた名曲を取り上げる、といった、ある意味アカデミックなアプローチが普通だし、クラシックコンサートというのはそういう「知的」な場として規定されていることが多い。

でもねぇ、私みたいなアマチュア歌手のソロ・リサイタルで、いくらそんな「知的」なこと並べたところで、歌自体ヘボなわけですよ。いくら色んな蘊蓄総動員してトリビア的雑学並べてみたところで、ゲスト歌手や伴奏者にいくら助けてもらったところで、メインの歌手がヘボである以上、お客様の集中力を最後まで保つのは至難の業。とすれば、「今日は一体どんなコンサートになるのかな」「こいつはどんな舞台で俺たちを楽しませてくれるかな」というワクワク感みたいな所でお客様の気持ちをつないでいくことも考えないと、と。

なので、チラシにも演奏曲情報はほとんど記載しませんでしたし、当日は毎回配布しているパンフレット(演奏曲リスト記載)も配布せず、演奏曲は直前のMCで紹介するにとどめる形にしました。そういう点でやっぱり参考にしたのは、さくら学院やBABYMETALのイベントだったりするんですけどね。彼らの舞台って、当然のように当日のセトリは事前に公表されていないし、さくら学院の学院祭みたいなバラエティ的イベントは、途中の寸劇やコント含めた全体のプログラムも現場に行ってみないと分からない。でも、ライブってやっぱりそういう、「行ってみないと分からない」「何が起こるか分からない」というワクワク感が魅力だったりするんじゃないかな、などとちょっと偉そうに考えました。18世紀19世紀から300年に渡って受け継がれてきた名曲を現代に演奏するためには、「現代のxxオケが19世紀の作曲家のこの名曲をどう演奏するか」という、テキストに対する解釈を味わうアカデミックなアプローチが必須だとは思うのだけど、そのあたりはクラシックのプロの舞台に任せておこうかな、と。

クイズ大会もそうですし、歌謡曲やミュージカルなど、自分の歌いたい歌を、「旅」というキーワードでまとめたごった煮的な演奏会で、ソロ・リサイタルというか、ドサ周りの演歌歌手の宴会芸みたいな側面もあったかな、とは思いますが、自分なりに目指したのは、「一瞬でもいいから、『この曲いいな、かっこいいな』と思ってもらえる瞬間を届けられたら」という思いでした。お笑いコントや宴会芸みたいな「バッタモン」の舞台の中にも、瞬間、本物のミューズが舞い降りる瞬間があるかもしれない。そういう瞬間が少しでも届けられるように、なんとか楽曲の魅力に辿り着きたい、という思い。

当日いらっしゃったお客様にどれだけそんな思いが届けられたかは分かりませんが、とりあえず、この演奏会の模様は、後述するYouTubeチャンネルで公開する予定です。その動画見ながら、皆さんで、「言ってることとやってることが全然違うなぁ」などと、心で罵倒していただければ幸いでございます。あ、面と向かって直接罵倒するのは勘弁してね。かなり心弱いので。すぐ心折れちゃうから。やめて許してお願い。

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心優しいお客様との終演後の記念写真。出演者の美女二人に挟まれているのはクイズ大会の優勝者。おめでとうございました。皆様とまた楽しい時間を過ごせたら嬉しいです。

 

山出愛子さんを聞いてモーツァルトを思う

さぁ大げさなタイトルをつけたぞ。タイトル負けしそうな予感バリバリだぞ。例によって今回はさくら学院の卒業生の山出愛子さんのことを書くので、さくら学院に興味のない方はここでご退場くださいね。

先日開催された山出愛子さんのオンラインライブで、新曲の「はなまる」が公開されたのだけど、この曲を聴いて、自分がなんで山出さんの曲を聞くと時々ほろっと泣きそうになるのかなぁ、というのがちょっとだけ分かった気がしたんですね。ちなみにYouTubeで公開された「はなまる」のリリックビデオ、「びじゅちゅーん」の井上涼さんのテイストがちょっとあって大変可愛いんだけど、歌われている内容はかなりハードなんだな。

youtu.be

 

「やりたいようにやってみりゃいいさ」
本当無責任なオトナ
どうせ途中でなんだかんだいっぱい
文句を言うくせに

はなまるちょうだい ド派手にちょうだい
大変よくできましたってさ
お望みどおり
お利口さんに生きて来れたでしょ?

 

なんていう歌詞が疾走感のあるロックビートで結構ビンビン心に響くんだけど、さくらの頃からずっと山出さんを見ている父兄の端くれとしては、すごく山出さんっぽい歌詞だなぁって思っちゃうんです。やりたいこと、表現したいことが溢れるくらいあって、でも大人の思惑や事情についても子供の頃からしっかり見えてしまっている山出さんが、大人向けの優等生やりながら心の中に押し込んでいる色んな本音が、いい感じに嫌味なく表現されている感じ。

山出さんという人は、さくらの頃から、常に100点を取るんだ、自分が引っ張っていくんだ、という意識がすごく高い人で、それは多分、9歳で「アメリちゃん」として芸能界に入った時から、そつなくこの世界で生きてきた彼女のベースになっている意識なんだね。彼女の凄さは、そのために決して努力を怠らないことで、さくらの頃は歌でもダンスでも周囲を引っ張り続けていた。同級生にはダンススキルの高い岡崎百々子さんや岡田愛さんもいたのだけど、あの小さな身体で決して二人に負けない存在感を放っていました。

そういう、ある意味とても「強い」そして「優等生」の山出さんが、時々、ふっと、弱い心やダークな側面を見せる瞬間があって、そこが彼女の魅力を多層化している気がするんです。「はなまる」はそういう彼女のダークサイドがうまく表現されている感じがしてそこが凄く好き。そういう、優等生で真っ直ぐな表現者が時々見せる心の闇、というか、暗い部分が作品やその人の魅力を深める、という所で、連想したのがモーツァルトだったのだね。飛躍ひでえな。

モーツァルトのかなしさは疾走する」という小林秀雄の有名な言葉があるけれど、モーツァルトの魅力って、底抜けに明るい楽曲の中にふっと立ち現れるダークな部分なんですよね。長調の曲より短調の曲に名曲が多いのもそうだし、明るい曲や喜劇のオペラにも、なんだか斜に構えた皮肉屋の視線とか、悪戯っぽい悪童の素顔がちらちら見える瞬間があって、それがモーツァルトの魅力を多層化する要因になっている。

そう思うと、モーツァルトも山出さん同様、子供の頃から「天才」と言われて大人の思惑だの大人の事情に振り回されながら、自分の表現したいものを必死に表現しようと奮闘してたんだよなって。お父さんのレオポルドに「はなまる」もらうために必死に練習したりしてさ。自分のやりたいことやろうと思ったら、ザルツブルグ大司教やらお父さんにも反対されて、何でいこの野郎、みたいに逆ギレしたりして。

そういう、子供時代から「天才」と言われた人に共通する孤独感、みたいなものを山出さんの作品にすごく強く感じたのが、「君に出会えてよかった」という愛犬まるちゃんのことを歌った曲。これは山出さんご自身が作詞しているんだけど、まるちゃんとの楽しい日々を歌いながら、いつか来るまるちゃんとの別れの日を予感する歌詞が続くんだね。

 

これから先の私たち いつの日か離れてしまうけど

いっしょにいよう、これからも最後までずっと

 

愛らしいペットと戯れながら、その子との別れの日を予感してしまう、という所に、山出さんの、「今のこの瞬間は決して永遠に続かない」という透徹した大人の視点を感じて、この曲を初めて聞いた時は結構ぎょっとしたんです。そういう「いつか来る別れの予感」というのは、続く「3月なんて大嫌いだ」にも表現されているんだけど、鹿児島という地方出身で、若者はいつか東京などの大都会に出ていく、いつか別れが来るっていう予感の中で日々を過ごしている山出さんの表現の源泉にある思いなのかもしれないなって。さくら学院、という、「卒業」という別れの時が必ず来る、というシステムを持ったアイドルグループにいたのも大きいとは思うんですけど。

ひょっとしたらモーツァルトも、子供の頃みたいに、いつも誰かに自分をほめてほしくて、自分を愛してほしくて、でも思うような愛や賞賛を得られなくて、どこかでいつか来る別れを予感しながら作品に向かっていったのかもしれないよね。「はなまる」の作詞の遠坂めぐさんは、山出さんの前作の「ピアス」でも、山出さんの日常を優しく切り取った歌詞を作詞された方で、山出さんのピアノの先生でもある。身近にいてくれる理解者が自分の思いを代弁してくれている分、そういう大人たちに愛されている分、モーツァルトよりも山出さんは恵まれているのもしれないんだけど。

山田武彦と東京室内歌劇場vol.5 ~生の音ってこんなに豊かだったのか~

この日記には、ドルヲタネタだけじゃなくて、女房や私の舞台活動についての感想や雑感なんかも載せているんですが、コロナのばかたれのおかげで、そのネタになる本番舞台が全くなくなってしまって数か月。東京室内歌劇場の中堅歌手として頑張っている女房は、今年の2月から6月まで、10本以上の本番舞台を予定していたのですが、これが全て中止・延期の憂き目に会い、ずっと本番舞台から遠ざかっていました。私も合唱団が出場予定だった合唱コンクールなどの舞台がなくなり、6月にやろうと思っていたリサイタルも延期。そしてこの7月、緊急事態宣言の解除とイベントの再開を受けて、本当に久しぶりに東京室内歌劇場の歌い手が集ったコンサートが開催。7月11日(土)トッパンホールで開催された「山田武彦と東京室内歌劇場vol.5」。

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やっとこの日を迎えられた、という安堵感と、新しい生活様式の中で一体どんな演奏会になるものなのか、という一抹の不安も感じながら、飯田橋駅からてくてく歩き、やってきましたトッパンホール。このホールは駅からちょっと距離があることも含めて、サントリーホールっぽい感じがするんだよなぁ。企業スポンサーがしっかりしていてホールの佇まいが上品、というのも共通項なのだけど、何よりレセプショニストの方々のプロフェッショナル感が素晴らしい。

そのきびきびしたレセプショニストの方々に、「チケットはご自身で半券をお切りください」と言われて、自分で半券をちぎって用意されている箱に入れて入場。客席は、1列は2人ずつ空席にし、その前後の列は2人ずつ座って1人分を空ける、という市松模様の着席スタイル。ピアノの調律の音が響くホールに足を踏み入れた時から、ああ、やっぱり現場っていいよなぁってため息が出ました。ピアノの音が会場じゅうに満たされている、その音の振動の中に身体を浸す快感。

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(現場というな。ドルヲタがばれる。)

市松模様の客席がほぼ埋まって「満席状態」になると、意外と客席側が満たされた感じがします。ビジネス的にいかがなものなの、という話はあると思うのだけど、聞く側としてはこのゆったり感は結構ありがたいなぁ、と思ってしまう。隣の人の肘やチラシのガサガサ音を気にする必要もない。前のお客様の座高の高さにがっかりすることもない。

山田武彦先生のこのシリーズを拝見するのは昨年のVol.4以来なんですが、まぁカンタンに言ってしまえば山田武彦先生は天才なんですよ。伴奏っていうのは歌い手に寄り添って歌い手の歌いやすいように弾くもの、なんて思ってる人は山田先生のピアノを聞いたらひっくり返ると思う。とはいえ、歌い手とバトルしてぐいぐい引っ張っていく感じじゃないんですよ。歌い手の技量を見極めながら、楽曲と歌い手の間に生まれる化学反応を見極めながら、歌い手が気づかなかった新しい楽曲の解釈や魅力をすっと差し出して、その物語の中の登場人物として歌い手を輝かせる。なんかねぇ、映画監督みたいな感じなんだな。役者さんの魅力を120%引き出しながら、その映画の物語をすごく魅力的に語っていく、そんな感じ。

そんな山田武彦先生の伴奏で、美声揃いの東京室内歌劇場の歌い手たちが歌う日本歌曲、オペラ、オペレッタ、ミュージカル、そして歌謡曲。聞きなれたはずの歌たちが、山田先生の魔法とそれに導かれた歌い手たちの魅力で、思わぬ輝きを放ち始める。こんなに素敵な曲が沢山あるんだ、と前回に続いて驚きの連続だった昭和歌謡曲の名曲たちはもちろん、自分にとって聞きなれたオペレッタやミュージカルの名曲たちも実に色彩豊か。第三部で橋本美香さんが歌った「風雪流れ旅」では、イントロでピアノが三味線の音を響かせ、第二部で鈴木沙久良さんが歌ったマイ・フェア・レディの「踊りあかそう」では、よく知っているはずの楽曲なのにピアノ伴奏の音が不思議に歪んで、なんだかブリテン編曲の英国歌曲を聞いているような気分になる。

若干手前味噌になりますが、そんな中でも、よく知っているはずの楽曲が「この場でしか感じられない」緊張感と新たな魅力で満たされた感じがあったのが、大津佐知子が第一部で歌った「浜辺の歌」と、第二部の「サマータイム」でした。聞きなれていたはずの「浜辺の歌」は、時の流れの中に佇む人間の孤独感を浮き立たせるような心に沁みる歌唱でしたし、「サマータイム」は「事前に3回合わせたけど3回とも歌もピアノも全然違う」合わせの末の本番アドリブ一発勝負の緊張感の中で、子守唄に乗せて日々の幸福を願う祈りが、時に血を吐くような思いと共に心の琴線に触れてくる、そんな歌唱と演技でした。

アフターコロナの時代、いろんな配信サービスやオンラインライブ、リモートアンサンブルなどが巷に溢れていますけど、トッパンホールの素晴らしい音響の中で聞く生のピアノの音、バイオリン、バンドネオン、そして人間の声は、デジタルやネットで削り取られてしまう豊かな倍音に満ちていて、ああ生の音ってこんなに豊饒でこんなに心地よいものだったのか、と改めて実感。アフターコロナの空席だらけの客席が寂しい、という思いもあるけど、ゆったりと音楽を味わえる贅沢感もないわけじゃない。アフターコロナでも、やっぱり演奏会に足を運びたいなぁ、と思った素敵な時間でした。

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山田先生初め共演者の皆様、女房がお世話になりました。素晴らしい午後をありがとうございました!

 

「密」はケガレを祓うもの

前回のこの日記で、ライブがもたらしてくれる「密」の快感が人間存在そのものに必要不可欠なものなんじゃないのか、「新しい生活様式」という議論の中で、「密」を避ける生活が、人間にとってものすごく大事なものを奪ってしまうのじゃないのか、という話を書きました。今日はその続きで、よく言われる、「ハレ」と「ケ」の話と「マツリ」と「密」の話をつなげてみたいと思います。結論は同じなんですけど、少し視点を変えて。

どなたかが新聞に寄稿されている文章の中で、今回の危機は、都市に集中(密)しすぎた現状から、地方へ人口が均等に分散していくリモート(疎)の時代へ変革していく好機である、という議論をされていて、それはその通りだな、と思った。東京及び首都圏への一極集中が生み出す様々なリスクのうちの一つが顕在化したのが今回のコロナ禍であることは確かで、その方もおっしゃっていたけど、移動手段が限定されていた昔は、多数の人が集まっている「密」の状態というのは一種異常な状況で、分断されたムラ社会がポツンポツンと点在している「疎」の状態が「日常」であり「常態」だったんだよね。

ポストコロナの時代が、密から疎へ、一極集中から分散社会へと変化していくことは、個人的には悪くない流れだと思うし、今のデジタル化技術と発達した物流インフラを組み合わせれば、経済活動をしっかり維持発展させながら人口が国土全体に均等に分散する社会をうまく作り上げることはできるんじゃないかな、とは思います。でも、そんな「昔の日本」に戻ったとしても、定期的な「密」の機会というのは必須なんじゃないかな、と思ったんですね。そして、かつての日本のような「疎」の社会において、定期的に生まれていた「密」の機会こそが、「マツリ」だったのじゃないかと。

日本文化を語る上でよく言われるのが、「ハレ」「ケ」「ケガレ」の概念で、日常生活を表すのが「ケ」。「ケ」は、「気」にも通じるのだけど、少人数の「ムラ」が点在していた「疎」の環境で、日常生活を淡々とすごしていく状態が「ケ」であったとすると、日々を重ねていくうちにだんだん気力が衰えてきたり、なんとなく鬱屈してきたりする。生活を支えるエネルギーになる「気=ケ」が失われる(涸れる)状態=「ケガレ」になる。その「ケガレ」を祓うために「ハレ」の日である「マツリ」を定期的に開催することで、日常を営む「ケ」を取り戻していた。

そして、日本全国、あるいは世界中のどの「マツリ」を見ても、密集した民衆による神輿行列や踊り、つまり「密」の状態が欠かせない。むしろ、「マツリ」における行列や踊りや様々な歌舞音曲などのエンターテイメント自体が、群衆の密集した状態、「密」を生み出すための道具として機能していると言ってもいいかもしれない。つまり、「ハレ」の空間は、ほとんど人の往来のない点在した「ムラ」の「疎」の状態と対局にある「密」の状態を作り出すことによって、はじめて「ケガレ」を祓うことができたのではないのか、と。

それは、前回の日記に書いた、「密」の中で体感できる社会的存在としての一体感であったり、自分の中の生命感の再確認であったりするのだろうし、昔の日本社会では、もっと直接的で、「マツリ」自体が男女の乱交を伴う祝祭の場であって、日ごろは離れて暮らす男女がそこで出会い性交することで近親婚による劣化を避けた、という機能もあったと思います。ポストコロナの時代になり、近現代が指向してきた「都市集中(密)社会」から、「分散(疎)社会」へ変革していこう、というのは否定する気はないのだけど、「疎」が日常化したポストコロナ社会においても、どこかで「密」(ハレ)の機会を維持することを考えないと、社会全体が「ケガレ」てしまい、活力を失ってしまうのじゃないのかなぁ、と。

そして、日本において、その「密」(ハレ)を生み出す「マツリ」の起源は、天照大神が天岩戸にこもることで失われてしまった、世界を支えるエネルギーである「光」(ケ)を、アメノウズメが踊る煽情的なダンスによって取り戻す祭事だと言われます。アメノウズメは芸能の神様。ポストコロナ社会においても、「密」を生み出し支える大切な手段である芸能を維持することは、人間社会を維持していく上で必要なことだし、むしろ、日常的に「密」の中にあった都市集中の時代よりも、その重要性は増していくのじゃないかな、と思います。

 

遊びをせむとや生まれけむ

戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ

遊ぶ子供の声聞けば

我が身さへこそゆるがるれ

 

と歌った中世日本の人々は、歌いながら子供達と手を取り抱き合って遊んだのじゃないかと思うんだよね。「密」を捨てちゃいけない、守らなきゃって思うんだ。

「密」は人間にとって必要な「蜜」なのでは

どこまで行くのか底が見えない感じだったコロナ禍ですが、少しずつ光明が見え始めた感じがあって、そろそろ日本各地でも「出口戦略」が語られるようになってきましたね。その中で、「新しい生活様式」なんて話があって、この先2年間くらいは、「3密」を避けるように、という話が出ていて、防護マスクして飲み会やってる映像とか流れてる。それ見た誰かが、「こんなみっともない恰好で酒飲むくらいなら舌噛んで死ぬ」ってツイートしてて、気持ちわかるなぁって思っちゃった。

ベビメタ界隈では、「BABYMETALは誰でも知ってるだろ」という発言で有名なフーファイターズのデイヴ・グロールさんの投稿を紹介した記事がツイッターで流れてきて、そのあまりの熱さに思わず泣きそうになっちゃったんですけどね。

 

rockinon.com

 

この中で一番ぐっと来たのが、ライブという場がどれだけ人間の本質的な欲求に根付いているかを端的に述べているこんな文章でした。

「俺たちは人間だ。俺たちには、自分は1人じゃないんだと知り、不安をかき消す瞬間が必要だ。俺たちは理解し合えるんだと、俺たちは完璧じゃないんだと、そして最も大事なことは、俺たちはお互いを必要としているんだと知り不安をかき消す瞬間が必要なんだ。」

人間というのは社会的な動物で、人とのつながりがないと生きていけない。とはいいながら、そういう人とのつながりを維持することってそれなりにエネルギーが必要だし、本当に理解されているんだろうか、自分は人にとって価値ある存在なんだろうか、という不安から、人とのつながりを断って「引きこもり」になる人も多い。そういう不安を乗り越えて、老若男女が一つになれるのが、音楽を通したライブという空間で、そこで得られた一体感は、「俺たちは一つの場を共有できる、共感できる同じ人間なんだ」という安心感を与えてくれる。

ライブ空間っていう「密集・密閉・密接」の空間ってのは、そういう意味で、大変心地よい空間なんですよ。もっと露骨な言い方しちゃえば、性行為そのものが究極の3密なわけで、その快感は人類と言う種の存続を支えている。3密を避ける「新しい生活様式」というのは、限りなく人類という種そのものの本能に背く生き方で、そういう生活様式が定着した社会っていうのは、長期的に言えば種の存続そのものが危うくなる社会になっちゃうのじゃないのかなぁ、なんて思ったり。

もちろん、「新しい生活様式」自体、コロナ肺炎に対してそれなりに有効な治療薬ができて、インフルエンザよりもちょっと厄介な病気、程度にコントロールできるまでの一時的な生活様式、だとは分かってます。でもね、この「新しい生活様式」という言葉によって失われるものがどんなもので、それを失うリスクと、感染拡大のリスクの比較衡量、というのはちゃんとやった方がいいと思う。単純に、経済活動が再開できればいい、ということじゃなくて、もっと長期的に失われてしまう人と人との絆とか、生物としての生存本能、社会的本能のようなものへの影響とか。

もっといえば、人間って何のために経済活動やってるんだ、という話にもつながったりするんじゃないのかなぁ。仕事が趣味、という方は別として、多くの人が、文化や芸術が与えてくれる娯楽や、その「3密」の充実感を得るために日々の労働に精出してたりするんじゃないか、って思ったりするんですよ。デイヴ・グロールさんの言う、「俺たちはお互いが必要なんだ」と思える瞬間のために働いてるわけで、「新しい生活様式」ってのは、経済活動や労働の「目的」を毀損している気がするんだよね。俺たちは何のために働いているんだ、っていう。

一気に元の世界に戻すべき、と言ってるわけじゃないんですけど、「ライブハウスは3密だからダメ」とか、「合唱は飛沫感染リスク高いからダメ」とか、自分が愛する表現形態が「新しい生活様式」という旗印の下に否定されていくのがものすごく辛いんですよね。それによって失われているものがどれだけ大きいのか、っていうのは、もう少し議論されてもいいのじゃないのかな。例えば親しい人、愛する人とのハグとか、握手といった親愛の情を示す表現すら否定されてしまうと、ものすごく大事なものを失ってしまう気がする。「密」っていうのは、ひょっとしたら人類という種にとって、必要不可欠な心の栄養を与えてくれる「蜜」なのかもしれないんだから。