さくら学院、森萌々穂さんと新谷ゆづみさんの絆について色々

2018年度のさくら学院、卒業が次第に近づいてくるにつれて、先週末の3月3日には、ここまで詰め込みますかね、というくらいにイベントが重なっていて、父兄がかなりざわついたんですけどね。個人的には、麻生さんのラジオ番組「あしたの音楽」への単独出演が決まったところで、さくら学院の職員室の実力に、なんだか安心した、というか、職員室は、本当に、生徒たちの個性をどうアピールするか、という点について、業界への売り込み方も含めてものすごくよく考えてくれているな、という気がしました。もう外野の我々が四の五の言うのはやめて、さくら学院の職員室含めたアミューズのマネジメントに任せよう、と。父兄の間で賛否両論が出た、先週の「Freshマンデー」のマナーの授業のサプライズにしてもね、あれは新谷さんの魅力を一番引き出そうとした企画だったと思うんですよ。その前週に日高さんの「マリンポッター」の回があって、来週は麻生さんの「ぼっちでマンデー」があるよ、と言うタイミングで、じゃあ新谷さんの魅力を一番引き出すことができて、父兄さんが喜ぶ企画、と考えたときに、アドリブに弱いけど、逆にアドリブのパフォーマンスを求められた時の困惑と思い切りの狭間で揺れる万華鏡のような豊かな表情の変化が、新谷さんの一番の魅力だ、ということを、職員室は十二分にわかっていたんだと思うんです。実際、あの回は、新谷さんの、本人にも気づかないような魅力がいっぱい出ていて、先日のオルスタで、新谷さんの天使ぶりに、もう汚れたオレは消えてなくなりたいと思った父兄の一人としては、本当に文字通りの神回だったと思うんだよね。最終的にドSの諏内先生も新谷さんを一番評価していたし、そういう点でもあの回は新谷さんのために企画された回だと思う。麻生さんをトーク委員長に任命した時点から、新谷さん日高さんの映画デビュー、麻生さんの「あしたの音楽」に至る道筋、全てにものすごく納得感があるし、職員室は本当に生徒さんたちをよく見てくれているなぁ、と思う。信じてますからね。麻生さんの才能と笑顔を、しっかり世に出してやってください。Babymetalで水野由結さんを擦り減らしてしまった反省をしっかり踏まえて、この天使たちの笑顔を守ってやってください。

ということで、今日も書きたいテーマは、さくら学院なんですけどね。今日は、森萌々穂さんに焦点をあてたいんです。四人の個性が本当に四人四様で、来年度の生徒会が楽しみで仕方ない中二ーずの中で、個人的に一番の推しは、何といっても美人度とお笑い志向のギャップと、素になる瞬間の可愛らしさの破壊力がハンパない有友緒心さんなんだけどさ。最近、森さんが気になってしょうがないんだ。裏番、とも言われる周囲への影響力や美術部を実現してしまうプロデュース能力の高さ、そしてその裏で、2018年学院祭でテンパってしまったり、公開授業で新谷さんへのサプライズを聞かされて泣いてしまったりするメンタルの繊細さ、そのアンバランスさが気になってしょうがない。2018年度卒業式で、ひょっとしたら、森さんに一番泣かされちゃうかも、という予感がしてしょうがないんですよ。同期転入でもあり、同じ美術部の部員でもあり、そして何より、演技力を武器にする森さんにとって一番身近な目標である演技派、新谷さんの卒業を目の前にして、ああ見えて意外と繊細なメンタルの森さんが、最後までちゃんと平静でいられるんだろうか、って。

そういう、学年違いの転入同期の絆、というのは、さくら学院の創立当初からあった構造で、武藤彩未さんと中元すず香さん、中元さんと杉崎寧々さん、磯野莉音さんと田口華さん、倉島颯良さんと岡田愛さん、とつながってきた絆の構造。それが最も明確、かつ言語化されたのが、岡崎百々子さんと麻生真彩さんの関係で、麻生さんが2017年度卒業式で振り絞るように語った、「全部一緒だったのに、学年だけが違った」という言葉が全てを端的に言い表している。同期転入で、自分の半身とも思える存在が、一年先に卒業してしまう、という残酷な現実。こういう言葉を選べるという一点だけでも、麻生さんという才能を埋もれさせちゃいけない、と本当に思う。そして同じKYGの文脈で、2018年度の卒業のタイミングでは、麻生真彩さんと藤平華乃さんの絆の方が注目されているとは思うんですけどね。でも、ここで焦点を当てたいのは、森さんと新谷さんの絆についてなんです。

森さん、という人は、さくら学院に転入する前に、森先生脚本監督の短編映画「日曜日」(これがまた素敵な短編映画なんだ)のヒロインに選ばれていた、という時点で、黒澤美澪奈さんとまではいかないまでも、相応の実績と実力を引っ提げて転入してきた人だと思うんです。転入時点からそうだったわけだし、転入後も、PanasonicのCMにレギュラー出演するなど、他の同級生からはキャリアで一歩先んじていた人だった、と思うし、自分でもそういう自覚や自信があったと思う。さらに学年末テストで常に上位をキープしている聡明さも加えて、森さんの上から目線の発言とか、独特の毒舌とかのベースが形作られているんだろうな、と思う。

そんな森さんが、同期転入で一年上の新谷さんに対するときの態度、というのが、すごく面白い。藤平華乃さんと麻生真彩さんの関係と並べてみると、藤平さんが麻生さんへの尊敬と愛情をすごく真っ直ぐに表現するのに反して、森さんは新谷さんへの愛情をあまり素直に表現しない。新谷さんを「づみん」呼ばわりしながら、どちらかというとちょっとコケにしたりとか、屈折した感情を見せることが多い。でも間違いなく、森さんは新谷さんをものすごく尊敬(崇拝)しているし、あこがれているし、何より新谷さんという人が大好きなんだ、ということが色んな瞬間にちらちらと見える。藤平さんと麻生さんのように、はっきり見えるのではなくて、「ちらちら」と垣間見えるのがまたとてもよいのだよ。

そう思って見てみれば、森さんが新谷さんに憧れるのってすごくわかるんだよね。キッズタレントの頃から場に恵まれて、最初は努力よりも素質でポジションを得ることができたのかもしれない森さんにとって、努力で今の場所を勝ち取り、森さんが勝負している演技の分野で、自然とも作為ともつかない次元の違う演技力を見せる新谷さんというのは、間違いなく目標にするべき人だし、森さんが新谷さんの努力と謙虚さを見習ってきたからこそ、今のさくら学院の中の森さんのポジションと、ステージ上で時折見せる、はっとするようなパフォーマンスがあるのだと思うし。

最近巷では、「若おかみは小学生」をきっかけとして、「百合」がバズワードになっているようですが、さくら学院、という場所も、学院祭の「サクラデミー賞」の男装した生徒とのラブシーン、という、無茶苦茶百合っぽい企画を中心に、大変「百合」っぽいグループだとは思います。森さんと新谷さんの関係を、そういう視点で見て萌えるのもいいけど、それ以上に、自分の理想に向かって努力する中学生の少女が、一つの理想形を、目の前で顔笑る先輩、という具体的なロールモデルとして与えられて、その先輩に、憧れと尊敬と愛情を抱く姿に、なんだか青春の忘れ物を取りにきたような気分にさせられてしまうんです。

森さん、今のあなたは、新谷さんとは違う色と光で、本当に輝いていると思う。新谷さんの背中を追いかけていった成果が、あなたらしい自分星で輝き始めているのをみんな知っているし、そして何より、新谷さんはちゃんと見てくれていると思う。新谷さんの最後のステージを、中二としてしっかり笑顔で支えてあげてください。でも、最後の卒業生へのメッセージでは、思いっきり泣いていいと思うよ。そういう森さんのことを、多分、新谷さんは、本当に優しい笑顔と涙で受け入れてくれると思うから。

モニューシュコ「幽霊屋敷」~音楽って、力だよね~

24日(日)、女房が出演した、モニューシュコのポーランド歌劇「幽霊屋敷」を見てきました。理性を超えて、血に直接訴えてくる音楽の力に感激。

 

ミェチニク【ハンナとヤドヴィガの父親】:杉野正隆
ハンナ【ミェチニクの娘】:津山恵
ヤドヴィガ【ミェチニクの娘】:石井真
ダマズィ【ミェチニクの家来、お洒落な弁護士】:西岡慎介
ステファン【軽騎兵、ズビグニェフの兄弟】:園山正孝
ズビグニェフ【軽騎兵、ステファンの兄弟】:三塚至
チェシニコーヴァ【ステファン、ズビグニェフの伯母・伯爵夫人(未亡人)】:栗林朋子
マチェイ【チェシニコーヴァの老召使い】:小畑秀樹
スコウーバ【ミェチニクの召使い】:中川郁太郎
マルタ【ステファン・ズビグニェフのハウスキーパー】:大津佐知子
ジェシ【農夫】:櫻井淳
スタルシュカ【老女】:田中美佐子
 
音楽監督・指揮:今村能
管弦楽:フィルハルモニア多摩
合唱:多摩フィルハルモニア合唱団

 

という布陣でした。

f:id:singspieler:20190226223856j:plain

今村先生を囲んでの歌い手集合写真。本当に素晴らしいパフォーマンスでした!

 

少し前に、英語の勉強で見ていた、TEDというプレゼン番組で、アメリカの音楽文化を彩った様々なダンス音楽が、アフリカの民族音楽にルーツを持つのだ、というプレゼンを見たことがあります。例えばツィストは、コンゴから連行された奴隷が、自分たちの故郷で踊っていたダンスをアメリカに持ち込んだものなのだそうです。アフリカ系アメリカ人の間では、踊るダンスによってその人のルーツが分かるのだとか。言ってみれば、盆踊りや阿波踊りのステップによって、その人の出身地が分かるようなものでしょうか。奴隷制度の抑圧の中で、太鼓などの楽器を禁じられ、太ももをたたいたり手を叩いたりすることで代用しながら、自分たちのルーツを子孫に伝えようとした思い。そしてその強い思いが、世界の音楽のトレンドを大きく変えることとなった。

「幽霊屋敷」というオペラは、ポーランド、という国が、欧州の大国によって引き裂かれ、民族としてのルーツと、国家としての存在を根こそぎ奪われた時代に書かれたオペラだそうです。自分たちの依って立っていた精神的な基盤を根こそぎ奪われてしまった人々に、音楽ができることってなんだろう。大国ロシアという為政者の度重なる検閲という抑圧と制約の中で、「幽霊屋敷」の作り手たちが辿り着いた答えが、「音楽で抵抗してやろう」という挑戦と「音楽にはそれだけの力がある」という信念だったのかもしれない。全編で語られるポーランド土着の数々の風習、民族の精神、そして何より、ポロネーズマズルカといった民族音楽。そしてその音楽の力は、当時の聴衆の熱狂を生み、あまりの熱狂ぶりを恐れた当局によって、上演はたった3回で打ち切られた。にも関わらず、この作品は今でもポーランドで愛され、ポーランドで最も人気のあるオペラの一つ、と言われているのだそうです。

そして、音楽は驚くほど軽やかに、時代や空間を飛び越えていくんですね。ポーランド民族のルーツを、直接の物語として、ではなく、表面的には喜劇として作られた物語の中にこっそりと潜ませた隠喩として語る、この複雑な構成を持ったオペラの中で、音楽がいきなり、そういう構成の迷路の殻から飛び出して、グローバルな普遍性に向かって飛翔する瞬間が生まれる。第3幕で、早世した両親への想い出を歌うテノールのアリアは、他国に蹂躙されて失われた母国への哀悼歌であると同時に、現代世界の様々な場所で、迫害され、故郷を奪われた人々の慟哭とシンクロする。そして、終幕の全員合唱で歌われる華やかな舞曲マズルカは、その単純で力強いリズムで、現代日本の我々の血もたぎらせる普遍的な力を持っている。

そういう反骨精神や、芸術に対する信頼と信念、そして、そこから生まれた音楽の普遍性、という物語って、オッフェンバックが世紀末のパリで、ある意味命がけの笑いと洗練された音楽で権力を洒落のめしたのと同じ文脈なのかも、と思います。そしてひょっとしたら、あの東日本震災の時に、全ての日本の舞台人が感じた、「こんな時に音楽をやっていいんだろうか」という迷いに対する一つの答えなのかもしれない、とも思う。足元の堅固な大地が大きく揺れ、穏やかな海が牙をむいて全てを奪い去っていったあの時に、何もかもなくした人々の心を動かした音楽の力。音楽には、それだけの力があるのだ、と、確かに僕らはあの時気づいたし、音楽を続けることの意味について、一つの答えを見出した時期だったような気がする。

オペラ作品として見た時に、1幕と2幕に散りばめられた極めて民族的な仕掛け(シュラフタ、という、日本の地侍や英国の郷紳のような存在への賛歌や、パンに塩を盛って客人をもてなしたり、溶かした蝋が水の中で固まる形で未来を占ったり、といった風習)は、多分ポーランドの人たちの民族の記憶に直接語り掛けてきただろうけど、現代の、しかも日本の我々には少し縁遠くて、ちょっと長すぎる感覚がありました。でも、物語が動き始め、アリアや重唱、合唱や舞曲、と、音楽のヴァラエティがどんどん増してくる3幕や4幕になると、その音楽の普遍性が勝ってくる。そして、終幕のマズルカでは、19世紀のポーランドの劇場の熱狂の渦に向かってタイムリープしていく感覚に思わず鳥肌が立ちました。本当に、客席が一体になってマズルカを一緒に大合唱している姿が見えた気がした。音楽は時間を超える、というけど、こんなタイムトリップ的な感覚になったのは初めて。

在日ポーランド人の方々が多数いらっしゃったようで、終演後は皆さんスタンディングオベーション。母国を遠く離れた極東の国で、母国語のオペラを聞けるなんて、本当に嬉しかったんでしょうね。休憩中のロビーでは、いつものオペラ舞台よりずっと、金髪の方の数が多かったです。それにしても、東欧の方々って本当に美男美女が多いねぇ。小さなお子さんも結構いらっしゃって、本当にお人形さんみたいでした。

ポーランド語、という、世界でも最も難しい言語の一つに挑戦した歌い手の皆さん、数々の長大なソロを含めた難曲に挑んだオーケストラの皆さん、そして何より、このプロジェクトを牽引した今村能先生に、感謝です。素晴らしいオペラを紹介してくださって、本当にありがとうございました。本当に女房がお世話になりました。モニューシュコ、という作曲家の作品、もっと勉強してみたいと思います。You Tubeで見たら、ベチャワが結構歌ってるんですよね。そういえばベチャワって、クラクフの出身だったんだなぁ。

山出愛子の覚悟、麻生真彩の宿命

さくら学院を語る時に、多くの人がテーマとして取り上げるのが、組織におけるリーダー像。毎年、その年度の「生徒会長」というリーダが選ばれる=毎年グループのリーダーが変わる、というこのグループにおいては、生徒会長を中心とした生徒会のカラーが、その年度の個性になる。結果として、各年度が、それぞれ全く異なる個性と魅力を持った別のグループとして形成されていき、それにも関わらずやはり間違いなく「さくら学院」であり続ける、という、このグループ固有の変化と再生の物語が継続していくことになる。

各年度の個性を形成するのが、その年度の生徒会であり、その生徒会を束ねる生徒会長である、というのは、さくら学院の場合、かなり実質的に機能している気がする。商業ベースのアイドルグループが、形ばかり、名ばかりの学校ごっこをやっている、というのとは明らかに違っていて、各年度の生徒会の役員たちが、自分に与えられた役割をしっかりこなしていこうという自覚を持ち、周りのスタッフがその責任をしっかり負わせている様子が、そこかしこから伝わってくる。オリコンデイリーDVDチャートで1位をとるような経済的成果を生み出すグループの責任を、中学三年生のリーダーに任せる、という、なんという冒険的なビジネスモデル。

そういう責任感や自覚を負わされた過去の生徒会役員の中で、私がどうしても比較したくなるのが、山出愛子麻生真彩。自分がひいきにしている二人だ、ということもあるんだけどね。今日はこの二人を、リーダーシップ、という観点で比較して論じてみる中で、今年の中三3人、新谷ゆづみ、麻生真彩、日高真鈴という3人が、どうしてここまで安定感があるのか・・・ということについても考えてみたいと思います。

山出愛子、という人は、いい意味でも悪い意味でも、「さくら学院を背負わなければ」という覚悟を持った人だと思う。それは在校中だけではなくて卒業後もそうで、在校生の舞台に必ず顔を出す律義さ、さくら学院へのオマージュを加えたMVや、父兄を喜ばせるツイートの数々を見ても、山出さんが、これからもさくら学院を支え続けるぞ、という覚悟を持って芸能活動をしている思いがひしひしと伝わってくる。「さくら学院の卒業生として第一線で活躍する姿を後輩に見せ続けなければ」という気迫のようなもの。それはたぶん、「BABYMETALでさくら学院を有名にしたい」と言い続けていた水野由結さんの思いを受け継ごうという気迫。

その覚悟と気迫が、彼女自身のパフォーマンスのクオリティを高いレベルに成長させていく原動力であることは間違いなくて、シンガーソングライターとして生み出している作品にせよ、透明感と伸びやかさを持った歌声にせよ、在校中のダンスパフォーマンスの正確さにせよ、「私が引っ張っていくんだ」というエネルギーに満ちている。もともとの美貌と美声もあって、熱狂的な愛子ファンが生まれるのも当然。そして一方で、その強烈な気迫と覚悟が、さくら学院父兄の一部の中に、アンチ愛子、といえるような反発を生んだのも確かだと思う。「絶対的エース」たらんとして、そして実際にすべてのパフォーマンスで他を圧倒し牽引する存在になった山出愛子に対して、他の個性が圧死させられてしまうのじゃないか、という不安感。

そういう彼女の個性が目に見えて現れたのが、2017年度卒業公演の「Let's Dance」で、ドキュメンタリーにもあった通り、山出さんが、「ここまでキメるの?と思うくらいにキメていかないと、2015年度は超えられない」と挑んだダンスパフォーマンスは、まさに一糸乱れぬ完璧なダンスで、日体大の集団行動を見せられたような感動がある。でも、2017年度の「Let's Dance」を見たあとで、2015年度の「Let's Dance」を見ると、整然とした、とはとても言えないパフォーマンスが、各人の個性と魅力にあふれていて、この、全体に荒ぶる感じが一つのダンスとしてまとまっていく魅力っていうのは、2017年度にはなかったなぁ、と思ってしまう。どちらがいい、ということじゃなくて、個性としてね。

そういう、森先生すらおびえる「コワイ山出」への反発が如実に出たのが、岡田愛さんとの対立構図で、歌声、という点でどうしても山出さんを超えられない劣等感と、自分に対するプライドの高さが、相手をリスペクトしながらどうしても反発してしまう岡田さんのキャラになっていて、2017年度の生徒会の一つのカラーになっていた。でもこの二人の対立構図が、大人の思惑もあるのだと思うけど、生徒会の中で一つの「ネタ」として扱われることで、山出愛子という絶対的エースの暴走やほかの個性がつぶされてしまうリスクが緩和されていたのだと思う。岡田さんが「目安箱クイーン」と言われるほど後輩からいじられたのは、そういう弱さを持った岡田さんのキャラが、完璧であろうとする山出さんの圧力を緩和する休憩所として機能していたことの証左だと思う。

こう書くと、あんたもアンチ愛子の口かい、と思われるかもしれないけど、私はむしろ逆で、中学二年生くらいからそういう覚悟を持って芸能界に身を置いている山出さんが、本当にカッコイイと思うし、その覚悟を実践していく実行力にも感動します。それに単純に、あのちっこい身体からほとばしってくる「表現したい」という思いや、温かい歌声、彼女の産み出すシンプルで美しいメロディーと素直な歌詞が好きです。「コワイ」なんて言われるけど、あの温かい歌声や、すぐ泣いちゃう感情の起伏含めて、山出さんってとてもまっすぐで情熱的な人なんだと思う。山出さんには、在校生の希望の星でいてほしいし、今みたいな活動をしっかり続けていけば、確実にどこかでブレイクスルーが起こる。本当に頑張ってほしい卒業生の一人。

さて、そしてもう一人のリーダー、私の推しの麻生さんですよ。麻生真彩さんも、元父兄としてのさくら学院愛、負けん気の強さ、そして何より、絶対的な歌声と高いダンスパフォーマンス、トーク力の高さ、という万能型の才能で、第二の山出愛子になる可能性があった。入学直後のLoGirlで、「みんなが私の号令通りに動いてくれるから、日直やってる時が一番楽しい」と言っていた麻生さんが、「コワイ麻生」として後輩を引っ張っていく可能性はあったし、麻生さんには十分、山出さんと同じくらいの覚悟と自覚があったと思う。

そんな自覚の一つの背景になったのが、入学直後から父兄さんによって背負わされた期待、あるいは宿命のようなもので、それはすなわち、「中元すず香の後継者」という評価。外見が似ている、というのもそうだけど、なんといってもそのパワフルで貫通力のある歌声と、長い手足を存分に活かしたはじけたパフォーマンスが、今でも時々すぅさんを彷彿とさせるのだね。実際、今年度のWonderful Journeyで、「つまらない顔しないで」という部分が、オリジナルの中元パイセンの歌い口と声色にそっくりなパワフルさと弾けっぷりで、やっぱりこの人は生まれついてのロックシンガーだなぁ、と思った。カリスマ生徒会長だった中元パイセンから直接お手紙までもらって、「すぅさんみたいになりたい」と思っていたご本人にとっても、「中元すず香の後継者」というのは、彼女なりに背負った十字架だったのだろうなと思う。それってご本人にとっては、夢、でもあるだろうけど、それなりの重荷でもあっただろうと思うし、生徒会長に指名されずにトーク委員長に指名された時の涙には、すぅさんの後継者、という重圧から解放された解放感のようなものもひょっとしたらあったかもしれない。

麻生さんが、そんな自分の背負った宿命から解放された要因というのは、トーク委員長というポジションももちろん大きいけど、ちょっと抜けたところもある麻生さん自身の温かいキャラクターと、そして何より、新谷生徒会長のおかげだったんじゃないかな、と思う。麻生さんや日高さんのような高い歌唱スキルを持たず、ダンスも転入当初から苦手だった、という新谷さんは、間違いなく麻生さんの高いパフォーマンス能力をリスペクトしているだろうし、むしろ自分は少し引いたところで、麻生さんが先頭に立ってのびのび個性を発揮する場所を空ける謙虚さを持っていたと思う。一方で、新谷さんは、卓越した演技力と、たゆみない努力で、これも間違いなく麻生さんのリスペクトを勝ち得ていた。

2018年度の生徒会を見ていて、本当に安定感がある、というか、3人のバランスがいいなぁ、と思うのは、3人がお互いの能力を認め合い、リスペクトしている様子がすごくよく見えるから。歌唱力とダンスパフォーマンスのレベルが高くて、かつ自分の世界観をしっかり持っている日高さん。万能パフォーマーなだけじゃなくて、状況に対する対応力や周囲への気配りがしっかりできる麻生さん。努力する背中を後輩に見せながら、温かい目線や言葉で人を包み込み、時折はっとするような美しさと迫真の演技を見せる新谷さん。

この三人のパフォーマンスレベルの高さがあって初めて、かなり個性的で我が強い中二の四人の尊敬と敬意を勝ち取ることができた、それが2018年度の全体のクオリティの高さにつながっている気がする。三人がそれぞれ完璧ではない、それぞれに「イジリがい」のある天然キャラを持っていて、その個性がバランスするところで生み出される高度なパフォーマンス。山出式の一人の圧倒的なリーダが「パーフェクト」を目指して牽引していくやり方だと、中二の四人の個性がここまで引き出せたかどうか。2018年度のパフォーマンスは、2017年度の一糸乱れぬ感じとは少し違って、決めるところはびしっとキメながら、一人一人の個性が思い切り発揮されている荒ぶる感じもあって、2018年度がいろんなところで、「史上最高」と言われる一因になっている気がする。それぞれの演者が自分の個性をのびのび発揮できるからこそ、Wonderful Journeyとか、トロピカロリーみたいな群像劇型の楽曲が復活できたんだと思う。もちろん、2017年度には2017年度の魅力があって、ある意味メンバーの間にあった一種のバランスの悪さを、必死に乗り越えていく個々の七転八倒、みたいなところにドラマと魅力があったんだけどね。

仲間の信頼とリスペクトのおかげで、自分に背負わされた宿命から解放された麻生さん。そののびのびしたパフォーマンスで、来週の「ぼっちでマンデー」も思いっきり楽しんでくれるといいな。そしてこの経験を活かして、その笑顔をもっと輝かせることができる約束の未来へ向かって進んでくれたら、本当にいいな、と思います。

新谷ゆづみさんに消されるかと思いました。

本日、赤坂Blitzで開催された、さくら学院の「Road to Graduation Happy Valentine」、夜公演に参戦してきました。今日はその感想を書こうと思うんだけど、なんか夢でも見ていたみたいで現実感がないわ~。だってね、2メートルと離れてないところで生徒さんたちが全力の笑顔で踊ってるんだよ。アイコンタクトとって微笑んでくれたりするんだよ。新谷ゆづみさんと一瞬目が合って、多分お客様と目が合ったらすぐ視線を外しちゃダメだよって教わってるんだろうけどさ。あの潤んだ目でしばらく見つめられただけで、汚れたおじさんはもう消えてしまいたくなりました。マジ天使。

 

さくら学院の現場で今まで参戦したのは、ライブヴューイングと公開授業だけで、本当のライブに参戦したのは今回が初めて。なのになんとなんと最前列をゲットしてしまったのですよ。汚れたおじさんはもう、ごめんなさい、としか言えないよねぇ。なんか、先日の公開授業も三時限とも良席だったし、2018年度とは何か縁があるに違いない。先日偶然図書館で借りた本も、原題を確認したらFairytale だったしなぁ。全然関係ないな。舞い上がってるから許してちょうだいよ。


最前列ってのは、全体のフォーメーションとかは今ひとつ把握できなかったりするけど、とにかく一人一人の表情がすごくよく見えて、それぞれの表現に対するスタイルのようなものが見えて面白いなぁ、と思いました。今回新たな発見だったのは、森萌々穂さんと野中ここなさん。二人とも、とにかく曲の中で自分なりの物語を演じている空気感というか、こう演じるぞ、という積極性が素晴らしいんです。この曲のこの歌詞ではこういう表情、という演技プランがすごく明確で、森さんの見せる時折ハッとするような切ない表情や、野中さんのクルクル変化する豊かな表情が素晴らしかった。それが一番濃厚に出たのが、森さんが参加したWinkのカヴァー曲、「淋しい熱帯魚」で、森さんの憂いを帯びた表情と繊細なダンスに時折胸がグイッと掴まれるような感覚がありました。

 

藤平華乃さんのキレ(思わず目が行ってしまう)、吉田爽葉香さんの佇まいの美しさ(ランウェイは圧倒的な存在感!)有友つぐみさんの清潔感溢れる色気(あのヘアスタイルが最高)、白鳥沙南さんのパッと周りが華やかになる空気感、田中美空さんの爽やかな美しさ、そして八木美樹さんの癒しオーラと、野崎結愛さんのプロっぷり(ラストの約束の未来で、途中でスカートのホックが外れてしまったのを、冷静にしっかり付け直して、最後までセンターを踊りきった見事さは、菊池プロの再臨かと思った)。そして何より一人一人が、それぞれの個性を全部客席に届けようとするプロ意識がすごい。どのメンバーもそれぞれにキラキラしていて、本当に元気をもらえたんだけど、やっぱり中三の3人のアンサンブルと気迫と、表現者としての完成度の高さには圧倒されました。日高麻鈴という人は歌唱力の人だと思っていたのだけど、ダンスのキレの良さは素晴らしいし、新谷ゆづみさんは一つ一つのパフォーマンスに対する誠実さと、何よりどこかしら古風な美少女の空気感を持っていて、天使感が半端ない。繰り返すけど、マジあの視線に導かれてこのまま天国に行くと思いました。


そして麻生真彩さん。やっぱりね、汚れたおじさんは、あなたをずっと見ていたいと思ったよ。影ナレーションのお客様との阿吽のキャッチボール、MCの見事な仕切り、そういうトーク委員長としての爪痕はもちろんだけど、図抜けた声量と情感溢れる美声、力強いダンス。パフォーマンス中に、舞台上の演者も客席も全部全部巻き込んで笑顔を広げていく求心力とカリスマ性。どんな小さな舞台でもいい、ずっと表現することをやめないでほしい。あなたの笑顔に救われる人が必ずいるから。


冒頭の「My Graduation toss」と、 最後の「Carry on」では、みんなの思いが迫ってきて涙が出ました。なんか、明日からおじさんも顔笑ろうって思った。12人の天使の皆さん、本当に素晴らしいパフォーマンスをありがとう。そして職員室の皆さん、この学院をずっと続けていこうという皆さんの苦労や覚悟が、一つ一つの舞台をこれだけ輝かせるんだと思います。これからもこの天使たちを輝かせてあげてくださいね。

東京室内歌劇場の歩み Part.6 ~いっぱい盗みたい!~

今日は昨日お邪魔した、渋谷伝承ホールで開催された「東京室内歌劇場の歩み Part.6」の感想文です。なんだか、いっぱいヒントをもらえた素敵な演奏会でした。

f:id:singspieler:20190130225013j:plain

プログラム。青島先生直筆の作曲家のイラストとそのコメントがなんとも青島先生らしくて笑

最近、女房がお世話になるようになってから、すっかりおなじみになってしまった東京室内歌劇場ですけど、それまではその活動をよく存じ上げていませんでした。記憶や記録をたどると、初めてこの団体の舞台を拝見したのは、ガレリア座でもお世話になっていた近藤政伸先生が出演された、1997年上演の「ポッペアの戴冠」。次に認識したのは、NHKBS放送でも放送された、2002年に新国立劇場の中劇場で上演された、コクトー二本立て、プーランクの「声」とミヨーの「哀れな水夫」。コクトー二本立ても、なかなか日本で上演される機会のない演目ですし、「ポッペアの戴冠」に至っては、市川右近さんが演出し、ローマ時代の愛憎劇を歌舞伎に置きなおした舞台。それだけでもとても「とんがった」演目に挑戦する団体だなぁ、と思いますけど、今回の演奏会で、本当にこの団体でしか見ることができない、実験的で挑戦的な作品を上演し続けてきたんだなぁ、と実感。

 

f:id:singspieler:20190130224227j:plain

プログラムに掲載されていたこの時期の上演作品。ああ、なんだかどれもこれも見てみたいなぁ。

そして、今回取り上げられた作品はどれも、メジャーなオペラ作品とは言い難いながら、本当に「佳作」という単語がぴったりくる作品ばかりなんです。「白秋旅情」はどちらかというと前奏的な位置づけだったような気がしますが、林光先生の「白いけものの伝説」の、シンプルなのに神秘的な深い響きが美しい後半の二重唱。青島先生の「黄金の国」のラスト、合唱の中に「のろ作」のアリアが突き通ってくる時の鳥肌が立つようなカタルシス。青島先生が何度も、「これはモーツァルトの失敗作なんです」と繰り返していた「カイロの鵞鳥」の、モーツァルト節、ともいえる、ソロから重唱と声部が増えていく陶酔感。どこか「ヘンゼルとグレーテル」を彷彿とさせるファンタジー「クリスマスの妖精」の多幸感。「ああ、世の中には自分の知らない素敵なオペラがいっぱいあるんだなぁ」という思いで、なんだか嬉しくなってしまう。

極めつけが、最後に上演された、「シュフルーリさんのコンサート」。オッフェンバックという作曲家は、ガレリア座その他で散々取り上げているので、なじみ、という以上の親近感を感じていて、彼が大量に書いたと言われている一幕もののオペレッタを一つでも多く見てみたいし、できるものなら自分でも歌ってみたいと思っているんです。女房が東京室内歌劇場にご縁をいただいたのも、オッフェンバックの一幕もの、「市場のかみさんたち」でしたし、自分が出場したオペレッタコンクールで歌ったのも、ネットで見つけてきた、「ブラバントのジュヌヴィエーヴ」という一幕もののオペラのアリアでした。それくらい愛着のあるオッフェンバックの作品、演奏された一部分だけを聞いてみても、自分が歌ったマイアベーアの「悪魔のロベール」の旋律がそのまま出てくるわ、どう聞いてもヴェルディのジャンジャカジャン伴奏に合わせた三重唱が始まったと思ったら、バスが「呪うぞ!」と叫ぶのは「リゴレット」だし、いきなりドニゼッティの「ランメルモールのルチア」のソプラノとフルートの掛け合いをソプラノとテノールが二重唱でやりだすわ、本当にやりたい放題。そして全編パロディであるにも関わらず、本家を換骨奪胎して現れてくるオッフェンバックメロディのなんて悪魔的に美しいことよ。この演目、全編見たいなぁ。やってくれないかなぁ。

オッフェンバックも含め、どの演目も難曲ばかりで、歌い切った演者の皆さんは本当に素晴らしいと思いました。自分がバリトンなので、やっぱり注目してしまう同じバリトン歌手、福山出さん、古澤利人さん、山田大智さんの歌唱の完成度に感動しましたけど、一番カッコイイなぁ、と思ったのは、「のろ作」を歌われたテノールの相山潤平さん。せんがわ劇場の「天国と地獄」でもオルフェウスを歌ってらっしゃいましたけど、表現の幅が本当に広いのに、声の打点が全くぶれない感じがすごい。

でも、今回の演奏会で一番印象深かったのは、実は青島先生のMCでした。当然のように台本なんぞ持たず、しゃべることは全部頭に入っているのに淀みなく、青島先生らしいユーモアたっぷりの語り口で客席は大ウケ。毒舌キャラらしいシニカルなコメントもいっぱい出てくるんだけど、それが決して嫌味な臭いがしないのは、お客様を楽しませよう、という心遣いと、出演者に対する行き届いた目配り気配りがベースにあるから。出演者の表現を先生がさりげなくサポートして補うような場面もあり、演奏会の満足度をどうやって上げるか、ということをものすごく細やかに気遣ってらっしゃるんだなぁ、と感心しました。まさにMC(Master of Ceremony)の鑑。

自分も演奏会のMCをやったりするので、そういう意味でも勉強になりましたし、同じバリトン歌手の方々の身体の使い方、演奏会全体の構成から、オッフェンバックの演目まで、いっぱいマネしたい、いっぱい盗みたい!と思えるポイント満載の演奏会でした。とはいえ、「いいなぁ」と思って自分でマネしても、なかなか簡単に再現できるものじゃないんだよねぇ。まだまだ精進せねば。

さくら学院公開授業「映像パフォーマンスの授業2」参戦記~やっぱり唯一無二のエンターテイメントだと思うんだよね~

1月20日(日)に開催されたさくら学院の公開授業「映像パフォーマンスの授業2」に参戦してきました。さくら学院の現場は、ライブビューイングを入れるとこれで4回目になりますけど、映画館で楽しむライブビューイングと、本人達を目の前にして客席との一体感を味わえるイベントでは密度が違う。しかも今回、非常にくじ運に恵まれて、1時限目から3時限目の一日3回公演を全部、それも全て7列目より前の席、という良席で楽しむことが出来ました。初めて生で見た新谷さんや日高さんに、「ああ、この人たちは実在してたんだ」という感動もあったんですけど、一方で、改めて、このグループの活動のユニークさと、エンターテイメントとしての完成度の高さを実感しました。ということで、今日は、さくら学院がやっているこの「公開授業」というエンターテイメントについて存分に語らせていただきます。ほんとに、こんなエンターテイメント他にはないぞ、と。

f:id:singspieler:20190122220524j:plain

会場で、なんと無料!で配布されていたファンブック、SDC(Sakura Data Collection)。さくら学院の今年の卒業生の過去の様々なデータを見事にまとめた、まさに父兄愛の結晶。プロの編集者の女房に見せたら、「このイラストと記事をこのレイアウトでまとめるのはプロの仕事だし、それを無料で配るってのはちょっと信じられない」と舌を巻いておりました。こういうファンブックとか、他のアイドルでももちろん存在するとは思うけどさ。でもね、「2018年度のこの子達の記録を、今残さないと後がない」みたいな焦燥感って、さくら学院固有のものだと思うんだよね。

さて、さくら学院の一つのユニークな舞台パフォーマンスである「公開授業」というのがどういうものなのか、という点を簡単におさらいしておくと、学校活動をエンターテイメント化した、というさくら学院のコンセプト上、授業そのものもエンターテイメントとしてファン(さくら学院では、父兄、と呼ばれる)に公開する、ということで、落語の授業や剣舞の授業といったパフォーマンス系の授業や、書の授業、アートの授業といった自己表現に関わる授業、または世界の授業、宇宙の授業、といった一般教養の授業まで、生徒の成長に資する授業を公開して実施する、というイベントです。呼ばれる講師は各界の第一人者なので、テーマだけでなくて授業そのものも面白くて、聞いている父兄にとってもためになる、と人気のイベント。今回、私が参戦した、「映像パフォーマンスの授業2」の講師は、白Aさん。紅白でSexy Zoneのパフォーマンスを演出した映像集団、ということで、講師陣がどれだけ豪華か、推して知るべしですよね。

本当にユニークだと思うのは、普通、エンターテイメントというのは、舞台作品として完成したものを製作して、それを披露するものだと思うのだけど、この「公開授業」という舞台作品は、授業の中で一つの課題(それは舞台パフォーマンスであったり、形のある作品だったりするのだけど)を製作していく、そのプロセスを生徒さんたちと一緒に共同体験することがエンターテイメントになっている、という点。「生徒と一緒に父兄も成長しよう」という謳い文句が、掛け声だけじゃなくて現実なんだよね。共同体験のプロセスでは、非常にテクニック的な「舞台裏」を見ることもできるし、さらに深い演者の内面に触れる瞬間もある。演者の成長を見せる、という意味では、声楽などのクラシックの世界でよくある「マスタークラス」というエンターテイメントにも通じるけど、さくら学院の「公開授業」は、生徒たちが基本的に「初心者である」ということが前提になるので、逆にそのパフォーマンスの持つ本質が見えてくる瞬間がある気がする。まだ真っ白な素材である演者自身の思わぬ能力が発揮される瞬間や、苦闘の結果与えられた課題を克服した瞬間のカタルシスなど、一期一会の時間を共有する楽しみもある。

今回の「映像パフォーマンスの授業2」で具体的にそれを感じた瞬間を並べると、制作のプロセスとして、白Aさんが、ホリゾントスクリーンに番号のついた格子を映写して、「この格子に合わせて白い箱を置いていくんです。その置き位置がずれると映像がうまく映らない」と解説している瞬間とか、生徒さん一人一人に、カウントを取りながらポーズのタイミングを確認していくプロセスなどが、まさに「製作の舞台裏」を見ている楽しみだったんですね。プロジェクションマッピングという技術がココまで進化しているんだ、という純粋な驚きを感じる、という意味では、教養番組的な側面もあった。さらに、2時限目で麻生真彩が難なくこなしていたギターのステップを、3時限目の八木美樹が無茶苦茶苦労しているのを見て、麻生真彩の身体能力の高さに改めて驚いたり、八木美樹がそれを何とか克服した姿に拍手を送るカタルシスも味わえたり。

単純な言葉で言い換えると、学校生活をテーマにした生のドキュメンタリーを見ているような感じなんだよね。ドキュメンタリーと教養番組と舞台パフォーマンスを一期一会の「コト」体験として楽しめる、という、多分、さくら学院以外にはほとんど体験できないエンターテイメント。

と言いながら、パフォーマーの勉強の真っ最中である小学生から中学生の子供達が舞台に立つ以上、パフォーマンスとしてはまだまだ未完成な部分が沢山出てくることも否定できない。そこを補う仕掛けがいくつか必要になってきて、もちろん、未完成な生徒さんたちが少しでも完成に近づいていくプロセスをドキュメンタリーとして楽しむのも、その仕掛けの一つではあるのだけど、それ以上に、一線で活躍している講師陣が見せてくれるパフォーマンスのクオリティがすごく高くて、それ自体で十分に楽しめるんです。前回参戦した「アートの授業」でも、イラストレーター、山下良平さんの素晴らしい作品が紹介されたり、山下先生自身が即興で画面に描いた木の枝の表現など、ちょっと鳥肌が立つような高度なパフォーマンスがあった(それを白鳥さんがざっくり消しちゃったんだけどねww)。

そして今回は、なんと言っても白Aさん。白Aさんの自己紹介、ということでまずは彼らのパフォーマンスを見せられるのだけど、これがとにかくカッコイイ。シンデレラ城で初めて見たプロジェクションマッピングが、こんな風にリアルな肉体と絡んでいくのか、という興奮。しかも、最後に、直前に撮影した父兄さんたちの写真との共演、なんてものを見せられてしまうと、舞台と客席が一体になる「特別な瞬間」を提供する一期一会のパフォーマンス、という、このブログで何度も書いている舞台の魅力が、最新のテクノロジーで100%発揮されている感覚に震えてしまう。だから舞台はやめられないんだよなぁ、という。

そしてこれにさらに付加されるのが、生徒達が過ごした時間の経過、その個人個人が持っている物語自体を楽しむ、さくら学院というグループ特有のエモーショナルな側面。少ない練習時間で白Aさんのパフォーマンスをやり遂げてしまう個々の能力の高さ、そんな力を身につけた中三3人がこれまで積み重ねた日々。その中三3人へのサプライズメッセージ、3月に迫った卒業を前に流す涙、そして冒頭に書いたSDCのように、その時間を共に過ごしてきた父兄さんたち自身の物語など、重層的な物語世界が重なって、本当に充実感が半端ない。

既存のエンターテイメントに、これに似たようなエンターテイメントがあるかしら、と思ったら、多分、歌舞伎と宝塚、あたりじゃないかな、という気がしますね。成田屋中村屋の家族の成長の物語とか、宝塚の学校感とか。でも、その成長の過程自体を舞台パフォーマンスとしてお金取って見せてしまう、というのは、多分さくら学院が唯一だと思います。ひょっとしたら、世界的にも珍しいパフォーマンスグループなんじゃないかなぁ。

今回の舞台で、唯一、ちょっと気がかりだったのは、2時限目の麻生さんの表情が、授業の後半、少し暗かった時間があったんだよね。特に、サプライズがあった後、楽器パフォーマンスあたりで、ちょっとつまらなさそうな顔をしている瞬間があって。麻生さんというのは、自分が真ん中で注目されていないと落ち込む、というか、ちょっと反省モードに入ってしまう人だから、楽器パフォーマンス中に、自分が一生懸命やったギターよりも、後ろで苦労していた吉田さんのトランペットが注目されてしまったことに反省しちゃってたのかもな、と思ったりもするんですけど。でもひょっとして、前日の書の授業と、さらに今回のサプライズで、「これが自分にとって最後の公開授業なんだ」という気持ちが前面に出てきてしまったのかも、と思うと、ちょっとこの先心配になってしまう。本当に、麻生さんにはずっと笑顔でいてほしいんです。卒業後も、ずっとね。

恐らくは、白Aさんのプロジェクションマッピングを意識したと思われるグッズ、バーチャルドアスコープは、麻生さんを2個、新谷さんを1個、吉田さんを1個ゲット。今年度は、バレンタインライブの夜の部と、3月30日の卒業式に参加予定。今までライブビューイングでしか参加できなかったライブに、ついに初参戦です。歌の考古学には用事があって参戦できないけど、この3人の笑顔を、3月末まで見守っていければと思います。

リリーのすべて、マーニー~人の限界を知ってしまった僕らは~

二日続けてちょっと重ためのインプットがあったので、書き留めておこうかと。

昨日、ちょっと前にWoWoWで放送されたのを録画していて、ずっと見ていなかった、「リリーのすべて」を見る。娘は既に映画館で見ていて、「すごくいい映画だったから絶対見なよ」と推薦されていたし、何と言っても監督が、あの「英国王のスピーチ」のトム・フーパーさんだ、と聞いて、これはいつか見なければ、と思っていたのです。昨夜遅くに、何となく、リビングにいた女房と一緒に見てしまって、終わってから、二人して、うーん、と顔を見合わせてしまいました。

そして今日は、これも夫婦で、METのライブビューイングで、新作オペラ「マーニー」を見る。これも終演後、イチゴパフェをつつきながら、うーん、と色々語り合ってしまった。

ということで、今日はこの2つのインプットについて。映画とオペラ、ということでジャンルは違うんだけどね。こういう、読み合わせ、じゃないんだけど、同じ時期に入ってきたインプットで、不思議と共鳴しあう感じがあって、そういう「食い合わせ」みたいな現象が結構好きだったりするんです。なので、あえて強引に共通点を探してみたりする。

リリーのすべて」の時代背景は1920年代だし、「マーニー」の時代背景は1960年代なんだけど、どこかに共通点を感じてしまうのは、科学の可能性についての信頼や信仰、なんだよね。「リリー」にしても「マーニー」にしても、描かれているのは、人間の内面や心理の中に隠された「本当の自分」を探し求める物語。「リリー」はその解決方法として、性転換手術、という科学の力に頼るわけだし、「マーニー」においても、フロイト的「精神分析」、つまり科学の手法が色濃く見える。「リリー」においてはその映像の美しさ、映画の完成度の高さ、そして「マーニー」においてはその音楽の革新性の方が評価されるべきなのだろうけど、観客の一人としての純粋な感想を言えば、その「科学によって人の心の問題を解決できる」という基本的な姿勢に、なんとなくうさん臭さを感じてしまったりするんだよなぁ。

性転換手術や精神分析によって救済される心があることは確かなことだと思うし、それこそが科学の進歩だ、ということを否定する気はない。でもね、じゃあ人間の心理を全て科学が解明したか、というとそんなことはないじゃないですか。「マーニー」を見た後で、なんとなく女房に話したんだけど、そもそも死刑廃止論者や、あるいは、未成年や心神耗弱状態の犯罪者を有罪に問わない刑事制度の根底にある思想というのは、悪事を起こす人の心は、何かしら科学的な手法によって「治療」することができる、という科学信仰なんじゃないかな、という気がするんだね。治癒することができる病んだ魂を、人の手で裁くべきなのか、という発想。

でもね、科学自体が人が作り出したものである以上、その科学にだって限界はある。そんなに簡単に人は人を治せないと思うんだよ。そして現代の我々は、既にそのことに気が付いているよね、と思うんだ。心の問題だけじゃない、国と国の間のいさかいや、どうにもならない衝突も含めて、科学ではどうにも解決できない闇がある、ということ。

「マーニー」を見に行く前に、女房がそのあらすじを話してくれて、私が、「なんかヒッチコック映画みたいだね」と言ったら、本当にヒッチコックが映画にしているお話でびっくりしたんだけど、ヒッチコックの映画にはそういうフロイト心理学の分析手法に影響された映画が多くて、代表作の「サイコ」なんてまさにそのものだよね。今見ても十分面白いんだけど、どこかに当時の時代の空気を感じてしまうのは、科学が人の心の闇を全部明るみに出してくれる、という楽観主義にある気がする。人間の心って、そんなに簡単に見通せるものじゃない、ということを、僕らはもう知ってしまっているから。

「リリー」にせよ、「マーニー」にせよ、そういう現代の我々の科学への絶望、というか、人間心理の混沌を垣間見てしまった、「知恵の実を食べすぎた」現代人の視点もしっかり加味されていて、むしろそこが面白く見えたりする。「リリー」においてそれを象徴しているのが、ゲルダ、という奥さんで、この映画の主役はこのゲルダさんだ、と思います。男女の性的な結びつきを超えて、相手の人としての本質的な部分を心から愛することの純粋さと苦悩を全部抱え込んだ、アリシア・ヴィキャンデルさんの演技が本当に泣ける。

そして、「マーニー」において、主人公の一筋縄ではいかない心理の多重性を表現していたのが、「マーニーの影」ともいえる四人の女性アンサンブル。マーニーのそばにいて、彼女の内面をコロスとして表現する役割を与えられているのだけど、それこそ「サイコ」的な多重人格の表現としても、さらに主人公の心の闇の深さの表現としても出色の設定と思いました。

逆に、こういう「自分探し」の作品が出てくること自体、現代の我々が、科学でも解明することのできない人間の心の複雑さや謎に心惹かれている証左なのかもしれないね。久しぶりのちょっと重ためのインプット、色々考えてしまいました。