さくら学院公開授業「映像パフォーマンスの授業2」参戦記~やっぱり唯一無二のエンターテイメントだと思うんだよね~

1月20日(日)に開催されたさくら学院の公開授業「映像パフォーマンスの授業2」に参戦してきました。さくら学院の現場は、ライブビューイングを入れるとこれで4回目になりますけど、映画館で楽しむライブビューイングと、本人達を目の前にして客席との一体感を味わえるイベントでは密度が違う。しかも今回、非常にくじ運に恵まれて、1時限目から3時限目の一日3回公演を全部、それも全て7列目より前の席、という良席で楽しむことが出来ました。初めて生で見た新谷さんや日高さんに、「ああ、この人たちは実在してたんだ」という感動もあったんですけど、一方で、改めて、このグループの活動のユニークさと、エンターテイメントとしての完成度の高さを実感しました。ということで、今日は、さくら学院がやっているこの「公開授業」というエンターテイメントについて存分に語らせていただきます。ほんとに、こんなエンターテイメント他にはないぞ、と。

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会場で、なんと無料!で配布されていたファンブック、SDC(Sakura Data Collection)。さくら学院の今年の卒業生の過去の様々なデータを見事にまとめた、まさに父兄愛の結晶。プロの編集者の女房に見せたら、「このイラストと記事をこのレイアウトでまとめるのはプロの仕事だし、それを無料で配るってのはちょっと信じられない」と舌を巻いておりました。こういうファンブックとか、他のアイドルでももちろん存在するとは思うけどさ。でもね、「2018年度のこの子達の記録を、今残さないと後がない」みたいな焦燥感って、さくら学院固有のものだと思うんだよね。

さて、さくら学院の一つのユニークな舞台パフォーマンスである「公開授業」というのがどういうものなのか、という点を簡単におさらいしておくと、学校活動をエンターテイメント化した、というさくら学院のコンセプト上、授業そのものもエンターテイメントとしてファン(さくら学院では、父兄、と呼ばれる)に公開する、ということで、落語の授業や剣舞の授業といったパフォーマンス系の授業や、書の授業、アートの授業といった自己表現に関わる授業、または世界の授業、宇宙の授業、といった一般教養の授業まで、生徒の成長に資する授業を公開して実施する、というイベントです。呼ばれる講師は各界の第一人者なので、テーマだけでなくて授業そのものも面白くて、聞いている父兄にとってもためになる、と人気のイベント。今回、私が参戦した、「映像パフォーマンスの授業2」の講師は、白Aさん。紅白でSexy Zoneのパフォーマンスを演出した映像集団、ということで、講師陣がどれだけ豪華か、推して知るべしですよね。

本当にユニークだと思うのは、普通、エンターテイメントというのは、舞台作品として完成したものを製作して、それを披露するものだと思うのだけど、この「公開授業」という舞台作品は、授業の中で一つの課題(それは舞台パフォーマンスであったり、形のある作品だったりするのだけど)を製作していく、そのプロセスを生徒さんたちと一緒に共同体験することがエンターテイメントになっている、という点。「生徒と一緒に父兄も成長しよう」という謳い文句が、掛け声だけじゃなくて現実なんだよね。共同体験のプロセスでは、非常にテクニック的な「舞台裏」を見ることもできるし、さらに深い演者の内面に触れる瞬間もある。演者の成長を見せる、という意味では、声楽などのクラシックの世界でよくある「マスタークラス」というエンターテイメントにも通じるけど、さくら学院の「公開授業」は、生徒たちが基本的に「初心者である」ということが前提になるので、逆にそのパフォーマンスの持つ本質が見えてくる瞬間がある気がする。まだ真っ白な素材である演者自身の思わぬ能力が発揮される瞬間や、苦闘の結果与えられた課題を克服した瞬間のカタルシスなど、一期一会の時間を共有する楽しみもある。

今回の「映像パフォーマンスの授業2」で具体的にそれを感じた瞬間を並べると、制作のプロセスとして、白Aさんが、ホリゾントスクリーンに番号のついた格子を映写して、「この格子に合わせて白い箱を置いていくんです。その置き位置がずれると映像がうまく映らない」と解説している瞬間とか、生徒さん一人一人に、カウントを取りながらポーズのタイミングを確認していくプロセスなどが、まさに「製作の舞台裏」を見ている楽しみだったんですね。プロジェクションマッピングという技術がココまで進化しているんだ、という純粋な驚きを感じる、という意味では、教養番組的な側面もあった。さらに、2時限目で麻生真彩が難なくこなしていたギターのステップを、3時限目の八木美樹が無茶苦茶苦労しているのを見て、麻生真彩の身体能力の高さに改めて驚いたり、八木美樹がそれを何とか克服した姿に拍手を送るカタルシスも味わえたり。

単純な言葉で言い換えると、学校生活をテーマにした生のドキュメンタリーを見ているような感じなんだよね。ドキュメンタリーと教養番組と舞台パフォーマンスを一期一会の「コト」体験として楽しめる、という、多分、さくら学院以外にはほとんど体験できないエンターテイメント。

と言いながら、パフォーマーの勉強の真っ最中である小学生から中学生の子供達が舞台に立つ以上、パフォーマンスとしてはまだまだ未完成な部分が沢山出てくることも否定できない。そこを補う仕掛けがいくつか必要になってきて、もちろん、未完成な生徒さんたちが少しでも完成に近づいていくプロセスをドキュメンタリーとして楽しむのも、その仕掛けの一つではあるのだけど、それ以上に、一線で活躍している講師陣が見せてくれるパフォーマンスのクオリティがすごく高くて、それ自体で十分に楽しめるんです。前回参戦した「アートの授業」でも、イラストレーター、山下良平さんの素晴らしい作品が紹介されたり、山下先生自身が即興で画面に描いた木の枝の表現など、ちょっと鳥肌が立つような高度なパフォーマンスがあった(それを白鳥さんがざっくり消しちゃったんだけどねww)。

そして今回は、なんと言っても白Aさん。白Aさんの自己紹介、ということでまずは彼らのパフォーマンスを見せられるのだけど、これがとにかくカッコイイ。シンデレラ城で初めて見たプロジェクションマッピングが、こんな風にリアルな肉体と絡んでいくのか、という興奮。しかも、最後に、直前に撮影した父兄さんたちの写真との共演、なんてものを見せられてしまうと、舞台と客席が一体になる「特別な瞬間」を提供する一期一会のパフォーマンス、という、このブログで何度も書いている舞台の魅力が、最新のテクノロジーで100%発揮されている感覚に震えてしまう。だから舞台はやめられないんだよなぁ、という。

そしてこれにさらに付加されるのが、生徒達が過ごした時間の経過、その個人個人が持っている物語自体を楽しむ、さくら学院というグループ特有のエモーショナルな側面。少ない練習時間で白Aさんのパフォーマンスをやり遂げてしまう個々の能力の高さ、そんな力を身につけた中三3人がこれまで積み重ねた日々。その中三3人へのサプライズメッセージ、3月に迫った卒業を前に流す涙、そして冒頭に書いたSDCのように、その時間を共に過ごしてきた父兄さんたち自身の物語など、重層的な物語世界が重なって、本当に充実感が半端ない。

既存のエンターテイメントに、これに似たようなエンターテイメントがあるかしら、と思ったら、多分、歌舞伎と宝塚、あたりじゃないかな、という気がしますね。成田屋中村屋の家族の成長の物語とか、宝塚の学校感とか。でも、その成長の過程自体を舞台パフォーマンスとしてお金取って見せてしまう、というのは、多分さくら学院が唯一だと思います。ひょっとしたら、世界的にも珍しいパフォーマンスグループなんじゃないかなぁ。

今回の舞台で、唯一、ちょっと気がかりだったのは、2時限目の麻生さんの表情が、授業の後半、少し暗かった時間があったんだよね。特に、サプライズがあった後、楽器パフォーマンスあたりで、ちょっとつまらなさそうな顔をしている瞬間があって。麻生さんというのは、自分が真ん中で注目されていないと落ち込む、というか、ちょっと反省モードに入ってしまう人だから、楽器パフォーマンス中に、自分が一生懸命やったギターよりも、後ろで苦労していた吉田さんのトランペットが注目されてしまったことに反省しちゃってたのかもな、と思ったりもするんですけど。でもひょっとして、前日の書の授業と、さらに今回のサプライズで、「これが自分にとって最後の公開授業なんだ」という気持ちが前面に出てきてしまったのかも、と思うと、ちょっとこの先心配になってしまう。本当に、麻生さんにはずっと笑顔でいてほしいんです。卒業後も、ずっとね。

恐らくは、白Aさんのプロジェクションマッピングを意識したと思われるグッズ、バーチャルドアスコープは、麻生さんを2個、新谷さんを1個、吉田さんを1個ゲット。今年度は、バレンタインライブの夜の部と、3月30日の卒業式に参加予定。今までライブビューイングでしか参加できなかったライブに、ついに初参戦です。歌の考古学には用事があって参戦できないけど、この3人の笑顔を、3月末まで見守っていければと思います。

リリーのすべて、マーニー~人の限界を知ってしまった僕らは~

二日続けてちょっと重ためのインプットがあったので、書き留めておこうかと。

昨日、ちょっと前にWoWoWで放送されたのを録画していて、ずっと見ていなかった、「リリーのすべて」を見る。娘は既に映画館で見ていて、「すごくいい映画だったから絶対見なよ」と推薦されていたし、何と言っても監督が、あの「英国王のスピーチ」のトム・フーパーさんだ、と聞いて、これはいつか見なければ、と思っていたのです。昨夜遅くに、何となく、リビングにいた女房と一緒に見てしまって、終わってから、二人して、うーん、と顔を見合わせてしまいました。

そして今日は、これも夫婦で、METのライブビューイングで、新作オペラ「マーニー」を見る。これも終演後、イチゴパフェをつつきながら、うーん、と色々語り合ってしまった。

ということで、今日はこの2つのインプットについて。映画とオペラ、ということでジャンルは違うんだけどね。こういう、読み合わせ、じゃないんだけど、同じ時期に入ってきたインプットで、不思議と共鳴しあう感じがあって、そういう「食い合わせ」みたいな現象が結構好きだったりするんです。なので、あえて強引に共通点を探してみたりする。

リリーのすべて」の時代背景は1920年代だし、「マーニー」の時代背景は1960年代なんだけど、どこかに共通点を感じてしまうのは、科学の可能性についての信頼や信仰、なんだよね。「リリー」にしても「マーニー」にしても、描かれているのは、人間の内面や心理の中に隠された「本当の自分」を探し求める物語。「リリー」はその解決方法として、性転換手術、という科学の力に頼るわけだし、「マーニー」においても、フロイト的「精神分析」、つまり科学の手法が色濃く見える。「リリー」においてはその映像の美しさ、映画の完成度の高さ、そして「マーニー」においてはその音楽の革新性の方が評価されるべきなのだろうけど、観客の一人としての純粋な感想を言えば、その「科学によって人の心の問題を解決できる」という基本的な姿勢に、なんとなくうさん臭さを感じてしまったりするんだよなぁ。

性転換手術や精神分析によって救済される心があることは確かなことだと思うし、それこそが科学の進歩だ、ということを否定する気はない。でもね、じゃあ人間の心理を全て科学が解明したか、というとそんなことはないじゃないですか。「マーニー」を見た後で、なんとなく女房に話したんだけど、そもそも死刑廃止論者や、あるいは、未成年や心神耗弱状態の犯罪者を有罪に問わない刑事制度の根底にある思想というのは、悪事を起こす人の心は、何かしら科学的な手法によって「治療」することができる、という科学信仰なんじゃないかな、という気がするんだね。治癒することができる病んだ魂を、人の手で裁くべきなのか、という発想。

でもね、科学自体が人が作り出したものである以上、その科学にだって限界はある。そんなに簡単に人は人を治せないと思うんだよ。そして現代の我々は、既にそのことに気が付いているよね、と思うんだ。心の問題だけじゃない、国と国の間のいさかいや、どうにもならない衝突も含めて、科学ではどうにも解決できない闇がある、ということ。

「マーニー」を見に行く前に、女房がそのあらすじを話してくれて、私が、「なんかヒッチコック映画みたいだね」と言ったら、本当にヒッチコックが映画にしているお話でびっくりしたんだけど、ヒッチコックの映画にはそういうフロイト心理学の分析手法に影響された映画が多くて、代表作の「サイコ」なんてまさにそのものだよね。今見ても十分面白いんだけど、どこかに当時の時代の空気を感じてしまうのは、科学が人の心の闇を全部明るみに出してくれる、という楽観主義にある気がする。人間の心って、そんなに簡単に見通せるものじゃない、ということを、僕らはもう知ってしまっているから。

「リリー」にせよ、「マーニー」にせよ、そういう現代の我々の科学への絶望、というか、人間心理の混沌を垣間見てしまった、「知恵の実を食べすぎた」現代人の視点もしっかり加味されていて、むしろそこが面白く見えたりする。「リリー」においてそれを象徴しているのが、ゲルダ、という奥さんで、この映画の主役はこのゲルダさんだ、と思います。男女の性的な結びつきを超えて、相手の人としての本質的な部分を心から愛することの純粋さと苦悩を全部抱え込んだ、アリシア・ヴィキャンデルさんの演技が本当に泣ける。

そして、「マーニー」において、主人公の一筋縄ではいかない心理の多重性を表現していたのが、「マーニーの影」ともいえる四人の女性アンサンブル。マーニーのそばにいて、彼女の内面をコロスとして表現する役割を与えられているのだけど、それこそ「サイコ」的な多重人格の表現としても、さらに主人公の心の闇の深さの表現としても出色の設定と思いました。

逆に、こういう「自分探し」の作品が出てくること自体、現代の我々が、科学でも解明することのできない人間の心の複雑さや謎に心惹かれている証左なのかもしれないね。久しぶりのちょっと重ためのインプット、色々考えてしまいました。

誰か麻生真彩を発見してくれんかなぁ

娘がまだ幼稚園生だった頃に、美少女戦士セーラームーンが実写化されて、娘が見たがるから、というのを言い訳に、私も結構喜んで見てました。美少女達のアクションドラマ、という意味では、自分が昔ハマったスケバン刑事のシリーズと重なるものがあったんだよね。そしてまた、出演していた女優さんたちが本当に美人揃いだったんだ。セーラーマーズの北川景子さんの凛々しい美しさが際立っていたのは事実だけど、個人的に一番好きだったのが、セーラーマーキュリーの浜美咲さんだったんです。ドラマの中でも、途中で洗脳されてダークマーキュリーに変身するなど、二面性のある難しい役をそつなく演じていて、どちらかといえば演技力的には発展途上の方が多かったセーラー戦士の中では、セーラームーン役の沢井美優さんと同じくらい、頭一つ抜け出ていた感じがした。その後、出演女優さんたちがそれぞれ、舞台やグラビア、あるいはバラエティなどで活躍されている姿を見て、何となく嬉しかったんだけど、一番贔屓にしていた浜美咲さんが、芸能活動をいったん休止したことがすごく残念だった記憶があります。

そしたら、昨日、娘が、「最近話題になっている、Indeedのコマーシャルの実写版ワンピースって、見たことある?」と聞いてくる。「あれで、ナギをやってるのって、セーラーマーキュリーだった人だよ」と言われて、びっくり。浜美咲さんが泉里香さんという本名で、グラビアアイドルやってる、というのも知らなかったんですけど、巨乳、というウリだけじゃなくて、ちょっと知性も感じるキュートな美しさが、セーラーマーキュリーの面影をそのまま残していてすごく嬉しくなる。

長い前置きになっちゃいましたけどね、本当に書きたいことは、そうですよ、やっぱりさくら学院ですよ。昔の推しがまた表舞台に出てきて活躍するのを見るってのは嬉しいもんだよねぇ。最近くらっと来たのは、新潟のメイクアーティストのutaさんがアップした、新潟で一番かわいい女子高生、白井沙樹さんの最新動画。在学中から際立って整った顔立ちだったけど、目力がさらに強烈になっていて、女神感が半端ない。大学受験に成功して、東京に上京してきてくれて、Freshマンデーで副担任のバイトとかしてくれたら、もう狂喜乱舞なんだけどなぁ。

それで今一番気になってるのが、麻生真彩の卒業後。年末年始のFreshマンデー見ていて、やっぱりこの人のエース感は半端ないなぁ、と思った。ある意味2017年度の絶対的エースだった山出愛子が、麻生真彩に対してかなりキツく当たっていた、というのは、山出さん自身が麻生さんの実力を評価していた、ということの裏返しだと思うし、今の麻生さんの立ち居振る舞いには、昨年の山出さんを彷彿とさせるようなリーダー感がある。黙って背中で見せて、みんなを優しく包み込む母性的な感じの新谷ゆづみさんに比べると、山出さんと共通する万能型の男性的なリーダーが、麻生さん。

でもね、これを書くと父兄さんに怒られそうだけどさ。山出さんとか岡田愛さんみたいに、卒業後もがっつり一線で頑張っている卒業生と比べて、麻生さんって典型的な美人とは言えないと思うんだよね。どちらかといえば愛嬌が先にたつFunny Faceなので、まず美人であることが前提で、そこに何をプラスアルファするのか、という芸能界においては、ちょっと入り口でハンデがある気がする。だから心配になっちゃうんだよなぁ。誰か麻生さんのパンチのある歌唱や、舞台上での爆発的な表現力とか、愛せずにはいられない笑顔の魅力とか、バラエティにも対応できる対応力の高さとかに気づいてくれんかなぁ。

以前の日記で、麻生さんが目指すべきは佐藤日向さんじゃないか、みたいなことを書いたのはそういう共通点もあって、佐藤さんも典型的な美人顔じゃなくて、ちょっと癖のあるFunny Faceの持ち主で、舞台上での歌唱や表現力で勝負する人だと思うんだよね。麻生さんにもそういう活躍の場があればいいんだけどなぁ。でも、そんなに焦ることはないのかもしれないんだけどね。白井さんだって、森先生の後輩目指して頑張っているけど、大学在学中に何かしら表舞台に出てくる予感はあるし、10年以上たって一線に復活してきた泉里香さんみたいな例もあるんだし。それにそもそも、表舞台に出てこなくても、みんなが幸せだったらそれでいいんだから。ううむ、なんだかまとまりがなくなってきちゃった。でもねぇ、父兄さんはみんな思ってると思うけど、昔の推しが表舞台に笑顔見せてくれたら嬉しいと思うんだよねぇ。ちらっとでもいいんだからさ。茨城の看護師さんが病院コントで出てきてくれたりとか、大島4人旅の写真とか出てきたりしたら、父兄はみんな昇天するだろうし、ゆいちゃんが卒業式の集合写真に顔出してくれただけで、みんな号泣だろうしなぁ。あ、オレも含めてね。

あけましておめでとうございます。ということで2018年振り返り

あけましておめでとうございます。2019年が始まりましたね~。20年前には世界が終わるはずだったのに、20年間もご苦労様でございます。これからも引き続き、色々すったもんだあっても、なんとか乗り切って前に進めるといいなぁ。

お年始は毎年、花巻温泉に集まって、のんびり過ごして、着物着てお正月気分を味わう、というのが恒例行事になっており、今年も同じように過ごしました。毎年の恒例行事が変わらず続く幸せ。

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なぜか男らしく自撮りをする娘と、ふにゃふにゃした母。

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そして花巻温泉あんぱんを食らう悪魔、じゃなくて父。

毎年お年始のこの日記の投稿では、その前年を振り返ったりしていますが、恒例行事を変わらず続ける幸せ、ということで、今年も、2018年を振り返りたいと思います。

家族のイベントという意味では、やっぱり娘の大学進学が一番のイベントでした。縁があって入団させていただけたワグネル・ソサィエティー・オーケストラの活動を中心に、娘の日常もずいぶん変化があって、高校の頃の活動よりもぐんとスケールアップした忙しい日々を送っているようです。今年の3月にはサントリーホール定期演奏会サントリーホールで毎年演奏会やってる学生オケって、何者さ。

女房のオペラ歌手としての活動も、これまでの活動がさらにレベルアップした感覚がありました。ほぼ毎年のように参加させていただいている室内歌劇場のせんがわ劇場シリーズでは、「天国と地獄」で初のプリマをいただき、常連として参加させていただいているシャンソン・フランセーズでもトリの大曲をもらい、浅草オペラのシリーズは南会津や大阪にまで展開。そして最大の挑戦が、「コシ・ファン・トゥッテ」のフィオデルリージ。2019年も、ポーランド語のオペラや、アメリカ歌曲の大曲など、さらに挑戦の場を広げていく予定。

そうやってスケールアップしている家族を尻目に、私自身は、といえば、サロンコンサートをやったり、ガレリア座の二公演に参加したり、麗鳴の30周年記念演奏会に参加したり、と、いつものように充実した舞台活動をこなしたんですが、一方で、なんとなく自分の年齢を意識する場面が増えた気がしていて、そろそろ、やりたいことは今のうちにやっておかないと、という焦りが出てきていたりします。そんな焦りもあって、サロンコンサートのシリーズでは、ずっとやりたかった「仮面舞踏会」のレナートを歌ってみたりしたんですが、2019年は、無謀かもしれないけど今のうちにやっておかないと・・・という企画を準備中。また詳細は別途宣伝しますね。

先日誕生日を迎えて、私も54歳。家族に、「54歳の抱負は?」と聞かれて、「やりたいことをやりたいようにやる」と答えました。背伸びかもしれないけど、今からどんどん手が届く範囲が狭くなってくるかもしれないし、まだ手の届くうちに、やれることをやらないと。そんな焦りの中で、ひょっとしたら全然違う地平が見えてくるかもしれないし。そんな思いで、この2019年を過ごしていきたいと思います。今年もよろしくお願いいたします。

 

フィクションが現実を侵食・再生産するのが「さくら学院」

さぁ、今日もさくら学院のことを書きますよ。さくら学院ってのはねぇ、語り始めると本当に止まらないんだよ。ずっと書きたかったこと、2017年度の学院祭のことだ。

2018年度の学院祭の寸劇が素晴らしい脚本で、デロリアンになることが決まって狂喜乱舞している父兄多数、というのが、最近のさくら学院を巡る最大のトピック。ただ、張り巡らせた伏線の中で、「『カメラを止めるな』みたいな伏線を後半で回収する脚本は難しいんだ」と言っていた森ハヤシ先生が、WAGE時代に書いた「公園」というコント(Youtubeで見ることができます)を見ると、森先生自身が、前半に仕込まれた構造が後半の展開で回収される、という脚本を、若い頃から書いていたことが分かる。そう思って振り返ってみれば、2017年の「Friends」の寸劇にしても、前半に仕込んだ「山出と岡田を仲直りさせるためのアイデア」が、後半にことごとく失敗していくプロセスが笑える、という構造になっていて、もともと森先生は、そういう脚本を書くことに長けている人なんじゃないかな、と思います。

で、本題の2017年度学院祭の寸劇のこと。脚本のベースになっているのが、当時中三の3人、山出愛子さんと岡田愛さん、岡崎百々子さんの関係にある、というのは、2018年度の脚本と同じ構造なのだけど、本音をぶつけ合って大げんかしている山出さんと岡田さんに対して、気が優しくて言いたいことの言えない岡崎さんが、本当の気持ちをぶつける、というシーンが全体のクライマックスに置かれていた。

面白いのは、その寸劇の物語が、卒業公演に向かっていくプロセスの中で現実に再生産されたこと。2017年度のRoad to Graduationのデロに収められている特典映像のクライマックスが、岡崎さんが泣きじゃくりながら、メンバーに向かって、「やる気がない子は帰っていいから!」と言い放つシーンで、ここで岡崎さんを良く知る麻生さんのナレーションが、「百々子が大きな声でメンバーを叱ったのはこれが初めてだった」と告げる瞬間、寸劇で描かれた「本当の気持ちをなかなか言えない岡崎さんが、しっかり自分の気持ちをぶつける」というフィクションが、現実のさくら学院の危機を救う、という形で再生産される。さらに、あのセトリを巡る話し合いの中で、岡崎さんの「2017年度のさくら学院ならできます」という名言を生むにあたって、フィクションで描かれた中三の人間関係がさらに重みを増し、物語が物語を再生産するメタ構造を構成するに至って、2017年度の一年間のドラマが極めて重層的なものになった。

こういう、フィクションが現実に変貌していく、あるいは再生産される、というのが「さくら学院」というアイドルの一つの大きな魅力で、それは2017年度の寸劇だけではなくて、BABYMETALの中元すず香の伝説の「歌の考古学」の授業でも現れた構造。「島唄」の生まれた背景に第二次大戦の沖縄戦の悲劇がある、という説明から、故郷の広島に根付く原爆の悲劇と平和への希求を語ったすぅさんのプレゼンテーションは、一つの物語として感動的なだけではなく、それがBABYMETALの伝説的な「LEGEND S」という大きくスケールアップした物語と化したことで、物語が拡大再生産されるそのプロセス自体が奇跡の物語になった。他にも、秋桜学園合唱部で描かれた人間関係は、黒澤美澪奈倉島颯良のその後の関係性に確実に影響していたり、I・J・Iの歌詞がそのまま2016年度のセトリを巡る物語とシンクロしたり、という重層性もある。

さくら学院の中で語られた数々の物語の中には、現実や時間の壁を越えられずに消えていった物語もあれば、今でも壁を乗り越えようと七転八倒している卒業生のリアルな物語もある。そういう終わりのない物語たちが絡み合いながら8年間続き、そしてきっとこれからも続いていくのだ、という時間感覚が、このグループの魅力を本当に多層的なものにしている。父兄の願いは、無限の可能性と未来を秘めたこの才能あふれる子供たちの物語の全てが、大きくても小さくてもいい、綺麗な花を咲かせてハッピーエンドで終わること。みんな、幸せになれ。

麻生真彩と日高麻鈴の歌声はどのように引き継がれていくのか

さぁ今日はさくら学院のことを書くぞ。さくら学院のことしか書かないぞ。ずっと書きたかったネタ、2018年度の歌姫、麻生真彩日高麻鈴(高ははしご高、以下同様)のことだ。

さくら学院のボイトレの方針ってすごいなぁ、と思うのだけど、徹底的に思春期の少女たちに地声発声を実践させるのだね。ファルセットも勉強しているみたいで、ソロ活動のときの山出愛子はその伸びやかなファルセットが持ち味になっているし、麻生真彩も、先日の学院祭のソロ曲で、地声からファルセットへの綺麗な切り替えを聞かせてくれた。でも、全員で歌う楽曲では、徹底的に地声発声で通している。変声期にこれを徹底していることで、中元すず香の圧倒的なメタルボイスが磨かれたことは事実だと思うし、実際、身体としっかり連動する強い声帯を作り上げることができるんじゃないかな、と思う。

中元すず香は別格としても、この指導方針の最大の成功例が、佐藤日向で、彼女がSaint Snowで聞かせてくれるパワフルな歌声の原点は、2012年度のステージですでに垣間見ることができる。すぅさんの歌唱の影に隠れてちょっと目立たないけど、2012年度の中二4人は、キャラクターの強さもさることながら、歌唱能力でも全員が、高水準で安定的な力を持っていた。

その中でも声の圧力の高さで群を抜いていたのが佐藤日向だったのだけど、その後継者とも言えるのが麻生真彩だと思う。麻生真彩を、ルックスも含めて、中元すず香の後継者と見る人は多いけど、特に中音域のパワフルな響きと、時に破綻することもあるパッショネイトな歌い口は、正確無比なすぅさんのレーザービームより、佐藤日向の大砲感により近い。先日の学院日誌で、日向ちゃんのレビュースタァライトの舞台に憧れた、と言う麻生真彩は、間違いなく正しい方向を向いている。長い手足と演技力、高いダンス能力も含めて、麻生真彩さんにはミュージカル舞台が向いていると本当に思う。

一方の日高麻鈴は、麻生さんほどのパワーはないものの、高音の伸びやかさと安定した音程が持ち味で、さらにこの人はフレーズ感覚がとてもいい。その歌い口の見事さが顕著に現れたのが、freshマンデーで披露された伝説の「identity」の弾き語りで、最近さらにパワーを増したダンスのキレといい、この人もミュージカル舞台が映えると思う。どちらかというと、日高さんは赤毛のアンみたいな名作ミュージカル舞台っぽくて、麻生さんはスタァライトみたいなバトル系が合ってる気がしますけどね。

この2人がツートップを務めていて、さらに癒し系の地声を持っている新谷ゆづみが、しっかりと存在感を持って全体を支えている、歌唱、という点では、2018年度のさくら学院は、この3人が牽引している歌のパワーが半端ない。逆に言うと、今の中2ーずには、この3人に匹敵するような魅力のある声の持ち主がいない。中2ーずの4人のキャラクターやプロデュース能力、ダンスのキレなどについては本当に申し分ないのだけど、こと歌唱、という点では、2018年度からは若干ダウングレードするのはやむなしかなぁ、と思ったり。

もちろん、そういう予想をがっちり裏切ってくるのが、成長期アイドルさくら学院の真骨頂で、先日の学院祭では、藤平華乃の中音域の声圧に、おおっと思わされた。吉田爽葉香は水野由結さんを彷彿とさせるベビーボイスで、高音が結構伸びるので、全体のパワーは若干落ちるとしても、バランスは悪くないかもしれない。ちょうど、2013年度から2014年度になった時、歌唱のパワーは落ちたけど、菊地最愛の声を中心に、アイドルっぽい可愛らしさが前面に出てきた時と同じような変化があるかも。

そう思っていたら、中1ーずの2人の歌唱の成長がすごいんだよね。「夢に向かって」の転入生3人ソロでは、転入式の時は野崎結愛の声しか聞こえなかったのに、先日の学院祭では、しっかり2人の声が出ていた。もともと地声を伸ばすさくら学院のボイトレ方針で行くと、地声が綺麗な子は歌も伸びる。野中ここなも、白鳥沙南も、とてもいい地声をしているので成長期待。特に沙南ちゃんのあの笑い声はいい。ちゃんと腹から声が出ている。それをそのまま伸ばせば、2017年度の麻生真彩日高麻鈴みたいに、中3の歌唱をがっちり支える中2ーずになれると思う。キャラクターが若干破綻しているのがどう落ち着いてくるか、というのもあるけど、この2人は破綻しているところが魅力だったりもするからなぁ。

こういう楽しみ方をしてると、さくら学院って本当に、部活エンターテイメントだなぁって思う。高校の部活とかで、実力のある上級生が卒業した後に、どうやってパフォーマンスの水準を維持するか、というのが、父兄やファンの心配事になったりするけど、それとすごくシンクロする。そういう意味でも、さくら学院のコアの部分は職員室の指導者にあって、高校の部活の水準を支えているのもその指導者だったりする。森ハヤシ先生の2017年度の送辞にもあったけど、さくら学院を守っているのは、職員室の先生方なんだなぁと本当に思う。

音楽関係インプット棚卸し(今年中にやらなくちゃ)

またぞろ日記の更新が滞っていてすみません。最近、どうも、日記とかブログを更新する意欲が減退しててさぁ、という話を娘にしたら、「文章書かないと呆けるよ!あたしゃパパとママの介護だけは絶対嫌だからね!」と言われる。娘の将来のためにも書かねば。

と言いながら、今一番書きたいのは2018年度のさくら学院のことだったりするんですけどね、それはまた別の記事でたっぷり書くとして、とりあえず、しばらく溜め込んでしまった各種インプットの中から、まずは音楽関係のインプットをずらずらと並べてみます。ちょっと長文になるかもしれませんがご容赦を。

12月2日(日)、女房が所属していた大学合唱団の学生指揮者同士、ということで結成された、貝賀直樹さんとのユニット、「ジュゴンツチノコ」の第二回演奏会「今年中にやらなくちゃ」をお手伝い。今年メモリアル、またはアニバーサリーを迎えた作曲家達を特集したこの演奏会、ロッシーニからドビュッシー、グノー、バーンスタインという、なんともオールラウンドの選曲で、女房も「ちょっとやりすぎたかな」と言っておりました。私は、舞台セッティング、字幕スライド作成と映写、その他裏方のお手伝い。受付は貝賀さんの奥様がお手伝い、ということで、例によって家内制手工業。大学時代の先輩後輩を中心にしたお客様方も合わせて、なんとも家族的な雰囲気の楽しい演奏会になりました。

かなりの大曲・難曲を並べたこともあり、女房は決して100点満点の出来ではなかったと思うのですが、それでもうまく失点挽回しながら全体にお客様が満足できるレベルにまとめるあたり、プロの歌い手として活動してきた経験値が生きたかな、と思います。特に最近は、かなりアドリブ力が求められる特殊な現場をいくつもかいくぐってきたからねぇ。個人的には、ドビュッシーの歌曲二曲が出色でした。

それにしても、いくらメモリアルとは言え、このラインアップの曲を並べられる、というのは、このユニットならでは、だと思います。英米とフランス物を得意とする女房のレパートリーと、貝賀さんのアマチュアならではの少しマニアックな選曲センスがコラボして、ちょっと他の演奏会では聞けそうにないようなプログラムになりました。バーンスタインの曲の中から、華やかな「Glitter and Be Gay」と並べて、敢えて「Somewhere」と「Simple Song」を選んできた選曲センスもよかった。この二曲も、客席には真っ直ぐ刺さったようで、Somewhereでは涙ぐむお客様の姿もありました。

今回の会場が、先月新規オープンしたばかり、という渋谷ホールという会場で、渋谷駅から徒歩5分以内で、内装も大変キレイ。そしてピアノはファツィオリ、ということで、こじんまりした会場ながら、ハレの気分を楽しめる素晴らしいホールでした。プロジェクターや照明設備を本格的に使用した演奏会イベントはこれが初回、ということもあり、会場スタッフの方が、まだ機器の操作に慣れない中、一生懸命試行錯誤してくれて、その姿勢がありがたかったです。舞台裏方としては、初期設定の設備によくある、使ってみないと分からない細かい不備や注意事項などを、スタッフさんと話し合いながらクリアしていって、最終的にはなんとか破綻なく、いい感じの舞台にすることができて、なんとかお役目果たせたかな、という感じ。照明の色の雰囲気を、会場の照明機材を初めて使う、という舞台スタッフさんと色々話し合いながら決めていって、ちょっと暖色系の明るい色にしてみたんですけど、プロのカメラマンの方から、「照明の感じがとてもキレイでした」と言われて、ちょっと嬉しくなる。カメラマンさんは会場の機材の能力の高さと、会場の内装を誉めてたんですけどね。

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終演後、カメラマン(早川礼子さん)による撮影会。利用時間終了ギリギリまで、会場の雰囲気を楽しませていただきました。

 

11月25日、娘の所属している調布フィルハーモニー定期演奏会を女房と一緒に拝聴。ブルッフ交響曲3番と、ブラームスの4番、という、交響曲2本だて。娘は、前日にワグネル交響楽団のチェロパートのアンサンブル演奏会があったこともあって、準備不足でかなりヘロヘロ状態だったようで、終演後はちょっと悔しそうな顔をしていました。でもそもそもが交響曲2本、というのは結構ヘビーだよね。

前半のブルッフ交響曲、というのは初めて聞いたのですが、ウィキによれば、ブラームスとは同時代人で友人でもあった、とのことで、楽曲の保守性から、後代の音楽家リヒャルト・シュトラウスなど)に攻撃されて、完全に忘れ去られてしまったとか。なんか、昔ガレリア座でやった、「悪魔のロベール」のマイアベーアを思い出させる表現だよね。でも確かに、耳に心地よい優しい旋律とかっちり作られた音楽は、心地よいのだけど、あんまり印象に残らない感じがした。娘によると、「印象に残らない音楽なのに、技術的にはすごくがっちり作ってあって結構難しい」んだって。苦労する割りに聞き映えがしないってのも、「悪魔のロベール」っぽいよなぁ。

そういう音楽があるんだよねー、と女房が言ってました。「コンコーネのミサ、とか、バイエルの歌曲とかさ。教科書的でとても技巧的なんだけど、後世に残らない音楽ってあるんだよねー」と。後半に演奏されたブラームスが、やっぱりさすがブラームス、という煌めきに満ちていて、こういう輝きがないと残らないんだなぁ、と思う。

 

11月には、METのライブビューイングを2本見ました。一本目は、アイーダ。タイトルロールのネトレプコがとにかくすごい、と評判だったんだけど、考えてみれば私はアイーダというオペラをしっかり客席で通しで見たことがないんですよ。それでオペラファンとか言うなって話ですけどね。すみません。

このMETのアイーダ、女房が、「いつか世界遺産にしてほしい」という、ゼフィレッリの作り上げた舞台装置をベースとした壮大なセットがなんと言っても見せ場。娘が、「METのアイーダには人件費という概念がないのか」と呟いた、とにかく圧倒的な群衆と物量。あの槍持ったお兄ちゃん達の中には、お昼までレストランでバイトしてたヒトとか入ってるよねぇ、なんて言いながら見てました。

ネトレプコという歌い手については、私が何か語るのはちょっと難しい気がしています。女房が語り始めるともう止めどがなくなっちゃうんだけどね。舞台での華やかさとか、演技の艶やかさとか、声量とか声圧の強さ、みたいなことが語られることが多いのだけど、女房に言わせれば、「楽譜の徹底的な読み込みの中で、この音、このフレーズ、この母音、この子音なら、このフォームが最適、というフォームを一つ一つ選択していく繊細さと、それを設計した通りにきめ細かく切り替えていくコントロールの完璧さ」に圧倒されるんだそうです。私にはそこまで聞き取れる耳はないのだけど、低音から高音まで、切れ目なくなめらかに流れるフレーズの流麗さにはいつも感動する。「本当にキレイに流れるよねぇ」というと、女房は、「私にはものすごく細かいギアチェンジが全部聞こえるから、逆に打ちのめされるんだよねぇ、ここまでやっちゃうんだ、って思ってさぁ」と言う。共演者の中では、なんといってもラチヴェリシュヴィリが素晴らしかった。ネトレプコとは「アドリアーナ・ルクブルール」でも共演する、というので、これも楽しみ。

もう一本見たMETライブビューイングは、「サムソンとデリラ」。「カルメン」で、あんたたちホンモノのホセとカルメンでしょ、と思わされた、アラーニャ、ガランチャのカップル共演、と言われたら、行かんとダメでしょう、と、これまた家族3人で行きました。

ガランチャ自身が、「スターウォーズみたいでしょ」と言っていた未来的なセットも素晴らしかったし、娘がむちゃくちゃ好きで自ら「ヘドバン状態になりました」と言っていたバッカナールのロックな感じ(METのオケが破綻したのを聞いたのは数回しかないけど、明らかに破綻していて、でもそれがムッチャ荒ぶる感じで堪らなく良かった)も、ホント最高なんですが、なんと言ってもアラーニャとガランチャです。お互いに不幸になると分かっていながら本能で互いを貪り合うように求めてしまう男と女の運命を、視線だけで表現できてしまうってのは、オペラ歌手の中でもあんまりいないカップルだと思う。アラーニャもかなりいい年齢になったと思うのに、素晴らしい歌唱でした。

さて、女房の今年の本番は、冒頭に書いたジュゴンツチノコでシメ、ということなんですが、私は、12月15日に、府中の森芸術劇場ウィーンホールで、合唱団麗鳴の定期演奏会があります。それで私の今年の音楽活動はシメ。そして来年に向けて、すでに仕込みは始まっております。そういう周知、告知は、別のブログに載せているんだけど、そっちの方も更新が滞っているんだよなあ。ボケないために書かねば。Write, or die.